生い立ち(五)

 於福が逝去したからといって晴信が戈を横たえるということはなかった。晴信は次なる標的を木曾に盤踞する木曾義康義昌父子に定め、自ら軍を率いて出陣した。対する木曾父子は、旭将軍木曾義仲の末裔たる誇りに賭けて飽くまでこれに抗することを決議する。

 木曾義康には確固たる勝算があった。木曾谷の嶮岨である。

 確かに武田は難敵であった。甲斐一国に加え信濃分郡の人々を引率しており、兵力でははるかに木曾を凌駕している。まともにやり合えば勝利は期しがたい。

 しかし如何に武田方が多勢に驕り押し寄せて来ようとも、鳥居峠に兵を籠めて蓋さえしてまえば、敵はこの嶮岨を一列になって攻め上るより他に攻め手はなく、兵力の多寡を度外視した合戦を展開できると義康は考えていた。嵩にかかって攻め寄せる敵の先手の二三隊に手酷い打撃を与えれば、敵は持久戦に切り替えるかもしれない。そうなれば遠征軍である武田方が先に息切れするのは火を見るより明らかであった。心ならずも武田に靡いている人々のうちから、内通者を募ることも出来るだろうし、越後の長尾景虎がこれを好機と攻め下ってくることも期待出来る。そうなれば木曾は、鳥居峠から一挙に溢れ出て武田を一掃すれば良いだけの話であった。

 木曾義康は、かかる戦略を念頭に置き、福島城に集った諸衆を前にして

「緒戦こそ興亡の一戦」

 と号して団結を図った。だが木曾の人々が鳥居峠に向け発向しようとしたそのときである。義康は俄に駆け込んできた馬廻の者より

「注進。武田方馬場民部少輔信春率いる敵部隊が小木曾より鳥居峠に向け侵攻中とのこと」

 との報告を受けた。

 それまでは意気軒昂、他国の侵略者を追い払ってみせようとの昂奮に由来する朱色が義康の顔からみるみるうちに消え失せて、その顔色はたちまち青ざめたものに変わっていった。

 晴信率いる武田方の主力は確かに当初の義康の見立てどおり、鳥居峠に向かってはいた。しかし深志の別働隊が小木曾から鳥居峠の背後に回り込んでしまったことで、先手を取られる形となった。鳥居峠に拠って敵を追い払うという義康の作戦が、根幹から覆ってしまったのである。強いて決戦を挑めば、兵力で遥かに上回る武田方に蹂躙されることは疑いのないところであった。

 木曾父子は敗北を覚悟した。

 武田の軍使が福島城に入ったのは、敗北を覚悟した父子が腹を切ろうとしていたそのときであった。父子は軍使を迎えた。軍使は晴信の言葉として以下のとおり通知した。

「木曾家は源義仲公以来の名族。討ち滅ぼすに忍びなく、敗軍は時の運であって切腹の儀も不要。和議に及び当家と友誼を取り結ぶことに異論がなければ、両家の間柄を入魂じっこんのものとするつもりである」

 これを聞いた義康は内心に非常な不快を抱いた。もとより木曾谷に独自の勢力を築いてきた木曾氏である。これまでどこの誰からも課役を課されるということはなかった。それどころか谷に産するひのきさわら高野槇こうやまきなどの木材を他国に売ることで、木曾谷は繁栄してきたのである。武田晴信が、木材販売の利益の何割かを収奪する目的で木曾谷に侵攻してきたことは明らかであった。

 その意図を隠し、恩情を装って友誼を取り結ぼうと企てる晴信の卑しい心根が透けて見えたために、義康は不快を抱いたのだ。

 しかし同時に、自分たちが腹を切ったとして、その後に木曾谷を見舞うであろう運命を義康は考えた。

 谷に産する木々が材木として使えるようになるためには、何十年という歳月を待たなければならなかった。それに、山には木が多すぎてもいけなかったし少なすぎてもいけなかった。木が多すぎる山は日の光が遮られて後が育たなくなるし、木が少なすぎる山は山肌が風雨に流されて旧に復するのに大変な時間と労力を要した。

 武田には木々を育てる意思も能力もないに違いなかった。

 もし自分達が腹を切ってしまえば、武田はいの一番にこれら谷の木々を接収するであろう。武田は後先も考えずに木々を残らず伐採し、城郭の木材や武具に使い、余った分は売りさばいて銭貨に替えてしまうであろう。木々を伐採し尽くされた木曾の山肌は無惨にも風雨に曝され、根こそぎ収奪され空っぽになった木曾谷は捨てられるに違いないのである。義康の脳裏を、そのような救いのない未来がよぎった。

 こういった未来から木曾を救うためには、恥を忍んででも生き残り、自分たちが山の木々を守るよりほかない。

 義康は心中秘かに抱いた不快の念が、武田からの使者の前でおもてに出なかったかを心配しながら

「和議の件、承りました」

 とこれを了承した。

 木曾の服属を得た翌々月、弘治二年(一五五六)の正月、晴信は遂に永年隠していた上洛の意図を諸将歴々に披露した。今を遡ること四百年前、治承寿永のころ、旭将軍木曾義仲が木曾谷を発って越後を平定し、一気呵成に上洛を果たした道のりを再び征こうというのである。木曾の服属を得たことで、晴信は上洛への途をはっきりとその脳裏に描いたのであった。

 晴信は上洛戦の覚悟を促すために野心を披露し、その噂は越後にも広まった。甲斐の武田がいよいよ本格的に越後攻略に動き始めたという噂を流して、越後の人々の動揺を誘うためであった。このために駒帰の大熊朝秀などは、長尾景虎を見限って武田方に転じている。

 晴信が上洛の野心を披瀝ひれきした、という話は、四郎勝頼の耳にも聞こえてきた。無論、木曾義仲の故事を知らぬ勝頼ではない。父は自らを木曾義仲になぞらえ、越後を平定した後、北陸道を一挙に西進する肚づもりなのであろう。甲軍が京洛に至るのが何年後のことになるのかは知らぬ。しかしそうなったからとて、自分の運命に何か大きな変化が起こるだろうとは、勝頼は思わなかった。

 なぜならば二年前の天文二十二年(一五五三)末、兄太郎義信が元服し、歴代武田家として初めてその名に将軍家の通字である「義」の字を賜った名を披露したのみならず、同時に幕府准三管領の職を賜ったことも披露され、盛大に祝儀が執り行われたことを知らない勝頼ではなかったからである。

 甲斐武田家は本来、在鎌倉を義務づけられている家柄であった。室町殿(将軍)が、西国大名に対して在京奉公を義務づけたのと同じように、関東諸大名に対しては在倉ざいそう奉公を義務づけていた。幕府は、始祖尊氏四男基氏もとうじの家系を鎌倉公方として関東に置き、別家に統治させる方針で臨んでいたわけである。

 しかし鎌倉公方は次第に、中央政府の意向を無視してその混乱に乗じ、独自の行動をとるようになる。鎌倉に対する警戒感を強めた幕府は、鎌倉公方の補佐役たる関東管領上杉家を抱き込んで監視役とした。この上杉家や関東諸大名、諸勢力を巻き込む形で勃発したのが所謂「享徳の乱」であった。約三十年に及ぶ内乱によって関東の秩序は崩壊し、鎌倉公方は古河公方と堀越公方に分裂した。奉公する先を失った関東諸大名諸勢力が割拠して、相争っているというのが現在の関東の情勢だったのである。

 余談が過ぎたが、関東の情勢がどうであったにしても甲斐武田家に在京奉公の義務はないし、幕府執事たる管領職は細川斯波畠山の三家に限定されていたこの時代、未だ家督も継いでいない一守護大名の嫡男に、「准三管領」なる職を賜ったのは、実に晴信の公儀に対する猟官運動の結果に他ならなかった。

 父は自らを木曾義仲になぞらえて上洛を果たし、その先で兄義信を幕府要職に就けるつもりなのであろう。父は自ら矢表に立つことなく、兄を意のままに操って権勢を振るうつもりなのだ。自分は父や兄に命じられるまま、室町殿、いやさ武田家に楯突く勢力を討ち滅ぼすため、戦陣を駆け巡らなければならなくなるであろう。

 もしどこかで歯車が狂って、武田家が京洛に至るということがなくなったにしても、父や兄の采配のもと、戦場を駆け巡らなければならなくなる運命にかわりはないのだ。

 だから勝頼は、甲軍が京洛に至ったからといって、自分の運命に何か大きな変化が起こるだろうとは、思わなかったのであった。

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