生い立ち(四)

 四郎は諏方上原城にあった。母於福の容態が好ましいものではなく、予断を許さないという報を得たからであった。病の床に臥せる母は、曾て四郎に強くあらねばならぬことを説いた母とはその趣を異にしていた。もともと色白だった肌は青白く生気を失い、頬は痩け眼窩も落ち窪んで見える。ただ眉は墨で描いたように濃く、瞳の輝きも死を必死に拒絶して爛々と輝いていた。於福は枕許に座る四郎に、いつもの如くこう言うのだ。

「あなたは、諏方と武田の血を引いているのです。両家累代の誇りに賭けて、強くあらねばなりません」

 母が自分の死を覚悟していないはずがない。四郎には自然とそう思われた。母は自分の死を覚悟しながら、それでもなお四郎に強くあることを求めているのだ。濃い眉と、その直下に輝く瞳は、四郎に強くあることを促すためのものであるかのように、四郎には思われた。呼吸が細って於福の声は続かなかったが、もし以前のように元気であれば、母は

「いくさには必ず勝たねばなりません。負けて良いいくさなどありません」

 と続けるはずであった。諏方頼重の最期を間近に見た於福が、四郎に遺そうとしたこれが最大の教訓であった。

 ふすまが開き、人が入ってくる足音が聞こえた。於福寝所に集う上臈や女中衆が一斉に伏した。於福の病状悪化を聞いた父晴信が、北信犀川での長尾景虎との長い対陣を切り上げて甲府に帰着したという報せは四郎の耳にも入っていた。その晴信が於福を見舞うために入ってきたものであった。四郎はひと目父の姿を見てから、他と同様に伏した。一瞬ちらりと見た父晴信の姿は、実際以上に大きく、強く、四郎には見えた。父は容易なことでは崩れそうに見えなかった。四郎にとっては母親、晴信にとっては妻である於福の死に接し、こうも傲然としてある父の姿に、四郎は怒りすら覚えた。

(少しは人間らしい、悲しそうな表情でも見せたらどうだ)

 という想いが、十にも満たない四郎の胸の中に溢れていた。

「人払いを」

 晴信がそのように求めると、上臈や女中衆は皆部屋をあとにした。もとよりこういった人々とは一線を画した存在だと自覚していた四郎は、人払いの求めに応じることなくその場に居残ろうとしたが、晴信は

「汝も部屋を出よ」

 と特に命じたので、四郎はこれに従った。高遠諏方家に養子に入った身とはいえ、晴信は四郎にとっては実父、於福は実母なのである。何故その場にいることが出来ないのか。一体父母の間で何が話し合われているのか。四郎の疎外感は次第に父に対する怒りの感情に変化していった。

 人の払われた室内。

 晴信は死相の浮き出た於福の顔を覗き込んで訊いた。

「最期に何か望みはないか」

於福は晴信の問いかけに対して、四郎を頼みますとこたえた。これが、言葉どおり四郎のことを頼むという単純な意味ではないことを晴信はよく理解していた。於福は四郎を諏方大社大祝職、延いては諏方惣領職に就けるよう、晴信に頼んだのである。体力が横溢しておる折ならばいざ知らず、死が眼前に迫っていた於福は

「四郎をどうか頼みます」

 と絞り出すのが精一杯であったが、その意味するところは晴信に過たず伝わっていた。

 四郎に諏方惣領家を継がせるということは、諏方伊豆守満隣を筆頭に大祝職をその子新六郎に就かせて安定している諏方の現状を揺るがしかねない人事であった。諏方衆のなかには、依然として千代宮丸(寅王丸、長笈)による惣領家継承に望みを抱いている者がいないとも限らなかった。現に薩摩守満隆はそのことを主張して諫死ともいえる切腹を遂げたのである。千代宮丸による惣領家継承とまではいかなくても、満隣系の男子に惣領家を継承させることで、男系の血統が守られると考える者もあるに違いなかった。四郎が諏方惣領家を継ぐということは、武田の血統を引き継ぐ男子に惣領家を簒奪されるという事態に他ならなかった。晴信は、諏方衆の動揺を抑える目的で、四郎による諏方惣領家継承が有り得ないことを明示するために、四郎を高遠諏方家に養子にやったのだ。

 だが晴信は、於福が四郎を巡る一連の措置に心底では納得していないことを知っていた。於福にとっては、諏方惣領家を諏方の男系男子が継承しなければならないということなど、今やどうでも良いことであった。ただひとりこの世に遺すことが出来た自らの子に、何とか苦労させず相応の待遇を与えてやりたいという素朴な親心があるだけであった。だから晴信は於福が死に臨んでそういったことを言い遺すに違いないと考えており、事実於福はそのことを求めて

「四郎を頼みます」

 と遺言したのである。晴信が四郎を含めて人払いしたのはその遺言を誰の耳にも入れないためだった。

 晴信はこの期に及んでなお四郎の行く末を案じる於福を安心させるために

「大事ない。四郎のことは汝の願いどおりに差配しよう」

 と嘘を言った。そのようなことをすれば安定しつつある諏方高遠の支配がまたぞろ揺らぎかねないのであって、実現可能性のない口約束に過ぎなかったが、於福はもうそのことについて深く考えたり、人証を求めて約束の履行を担保するほどの余命を持たなかった。晴信が四郎による惣領家継承を約束したことで於福は安心したのか、その日のうちに容態が急変した。いよいよ最期であった。晴信は、涙こそこぼさなかったが目を真っ赤にしていた。

 四郎はこれまで、父が斯くも目を真っ赤に腫らした様子を見たことがなかった。臨終の床に母を見舞い、なおも傲然としてあるように見えた父に抱いていた、つい先刻までの怒りは自然と解けていた。

 父も自分と同じ人間なのであり、親しい人の死が悲しくないわけがないのだ。父はだからこそ、越後との合戦を不本意ながらも何とか終わらせて、今ここにあるのだ。哀しみに身を任せて大声で泣き喚くことが出来たら、どんなにか楽だろう。自分ですらそう思っているのだ。父は尚更だ。きっと、悲嘆に暮れることも許されない立場なのだろう。子供だからといって、自分が泣くわけにはいかない。

 四郎はそのように考えて、ついに涙を流すことがなかった。於福の臨終の床から葬儀を終えるまで、四郎は一度も涙を見せなかった。

「四郎は強い。於福によく似ている」

 晴信は上原城を後にするとき、供廻ともまわりにそう漏らしたという。

 於福が逝ったのは弘治元年(一五五五)十一月のことであった。四郎にとって三年前に逝った養父高遠頼継の死に次ぐ縁者の死であったが、その哀しみと衝撃は、なんの縁も感じることがなかった養父頼継の死とは比較にならないものであった。

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