信玄卒去(二)

 武田に転じて半年程度と日の浅い山家三方衆の一、奥平定能の麾下に、鳥居強衛門尉すねえもんのじょう勝商かつあきという侍があった。彼など生来性朴訥ぼくとつ、人を疑うということを知らないために、長篠城に溢れかえるこれら甲軍の数を、信玄が事前に喧伝していた五万と信じて疑ってはいなかった。それも無理からぬ話で、三河に加え近年ようやく遠州を領国に加えたばかりの徳川が、三万に届こうという大軍を動員した例しがない。強衛門尉はこれだけの大軍を目にしたことがなかったのだ。なので、他に比較対象を知らない強衛門尉が、長篠城に集った甲軍を見て、この人数こそ五万人だと信じたこともやむを得ないことなのであった。

 さてその軍の末端を構成する強衛門尉にとって、これだけの大軍が破竹の戦勝を重ねながら停止している真相など知る由もない。

 このときの甲軍は行き場を失っていた。

 野田城の如き小城の攻略にひと月を空費した所以は、急造の陣屋に信玄の身を横たえ、半ば強引に静養させていたからであった。陣中に帯同していた板坂法印の必死の治療により、信玄の体調は恢復傾向にあった。二月も半ばを過ぎると、信玄を吐血させた厳冬期の寒風は鳴りを潜めた。このことが信玄の恢復傾向に拍車をかけた。

 体調が良くなると信玄は、一部重臣が止めるのもきかずに軍を動かすよう指示した。これは越前朝倉義景を動かすための措置であると思われた。

 三方ヶ原において信玄が織徳連合軍を撃砕したとき、朝倉義景は自国将兵を越前に帰国させていた。確かに織田勢との対陣は長期に及んでおり越前勢の厭戦空気は覆しがたいものがあった。信玄が反信長陣営に鞍替えして信長に圧迫を加えている情勢は、これら疲労甚だしい越前の諸将及び兵馬を休ませる絶好の機会だったわけである。

 だが信長を各方面から包囲する好機にあって、朝倉義景のかかる動きを知った信玄は激怒したと伝えられている。三方ヶ原戦勝を報せる書状と共に使僧を越前に派遣して再出馬を促したが、降雪により本国との連絡が遮断された状態で敵方とのいくさを続けるなど朝倉義景にとっては実際問題不可能であった。

 その朝倉を足留めしていた雪が、解けつつある。今こそ軍を動かして信玄健在を喧伝し、朝倉義景の再出馬を促す好機であった。

 だが無理をすると信玄はすぐに体調を崩した。食事がつかえて胃の腑に落ちず、更に痩せて体力が衰えて騎乗もままならなくなった。乗物(駕籠)に揺られようやく辿り着いたのが長篠城であった。急いて動けば信玄の体調は更に悪化するだろう。斯くして甲軍は行き場を失い、長篠城に逼塞することとなったのであった。

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