新府遺棄(二)

 その勝頼に対して真田安房守昌幸は上州吾妻の岩櫃城への退避を提言したという。

 後年、豊臣秀吉によって

「表裏比興の者」

 と評され、腹背常ない人物の代表のようにいわれる真田昌幸であったが、旧主信玄に対しては、生涯にわたり忠誠と敬慕の念を抱き続けた、と伝えられてもいる。その流れを汲んで勝頼に対しても忠誠を誓い、岩櫃城に勝頼一行を迎え入れ信長と一戦交えるつもりだったものか、後年の評に過たず腹背常ない態度を発揮して、窮鳥懐に飛び込んだ勝頼の頸を手土産に、自分を高く売りつけるつもりだったものか、今となっては知る術がない。勝頼は結局、長坂釣閑斎の提言を容れ、岩櫃城ではなく郡内の岩殿城に向かったからである。

 なお勝頼は落ち目の自分を自領に迎え入れる意志を表明した昌幸を賞し、その忠誠に報いるため新府城に留置していた彼の妻子を昌幸共々本国へ帰還させている。その中には、昌幸嫡男にして後の上田藩、松代藩初代藩主となる信之、その弟で、大坂の陣において勇名を馳せる信繁(幸村)の兄弟もあった。昌幸は、武田家が滅亡するというぎりぎりのところで、辛くも人質を奪還することに成功したわけである。

 自領に帰ったあと、勝頼が滅亡したと聞いた昌幸は

「このようなことになるのであれば、吾妻などに下らず御屋形様にずっと付き従っておくべきだった」

 と号泣したとも伝えられており、武田家滅亡に接して昌幸の意向が那辺にあったかは、現代に至るまで不明のままである。

 勝頼は郡内に落ち延びることを了承した後、相模守信豊に

「信濃を下賜する」

 と言い渡した。武田による支配がほとんど崩壊した信濃を下賜されたとして、今さら信豊に有効な反撃の手段があるとも思われなかったが、それは結果論である。なぜならばこのとき、下伊那上伊那や木曾、筑摩などの拠点は敵の掌中に落ちはしたが、先述のとおり北信では真田が、また佐久では一門の下曾根浄喜が小諸城代として、それぞれ自領を保っていたからである。勝頼は、岩櫃城ほど遠隔ではなく実質的に往来可能な小諸城に信豊を派遣し、自らは岩殿城に籠もって人々を糾合し、勝沼近辺でなおも織田方と興亡の一戦を遂げるつもりでいた。年来勝頼との交わりが強固で、その意を体現してきた信豊は

「信濃を賜ったのは栄誉であり今生の思い出としたいが、御家の危急にあって引き別れるのは耐え難い。このうえは、命果てるまで屋形様に同道しとうござる」

 と、最期まで付き従うことを望んだが、勝頼は

「生き残るみちがあるのにそれを選ばず、一門打ち揃っての滅亡を選ぶなど軽率の振る舞い。勝ち目が全くないというのなら、その時に至り腹を切れば良いだけの話なのであって、自ら滅亡を求めるのは端武者同然の行いだ」

 と諭して、信豊と引き別れた。

 勝頼は信豊との挟撃策を成功させるべく、郡内領主小山田信茂を召し出して

「相模守信豊が佐久の人々を糾合し、我等が鉄床として岩殿城に籠城するのだ。勝沼にて信忠を挟撃する策だ。岩殿入城は可能か」

 と戦策を披露した上で自らの岩殿入城を信茂に下問すると、彼は

「分かりました。岩殿城に籠もり、人々が命を擲つ覚悟で心を一つに敵と当たれば、運が開けることもありましょう」

 と勝頼一行を招き入れることを承知した。国家崩壊の危機に瀕しておりながら勝頼の眼は、侵攻してきた信忠軍との一戦を睨んで爛々と輝いていた。信玄が生前の防衛戦策はことごとく破綻したが、否、破綻した今だからこそ、勝頼は自分自身の力でこの危機を打開しようと考えていたのである。甲斐本国に敵の侵攻を許したとしても、野戦においてこれを撃破出来れば、一挙にこの状況を打開することも不可能ではないと勝頼は判断していた。

「武田家の興亡はこの一戦にこそある」

 小山田信茂に対し、手ずから盃を三杯与え、太刀を授けたとき、勝頼は今まで何度か口にしてきた言葉を信茂に掛けた。或いは国衆に奮起を促し、或いは自らを励ますために口にしてきた定型文である。しかし今回ばかりは定型文などではなかった。言葉どおり、武田家興亡の一戦に他ならない一戦となるであろう。またそのようにしなければならない。

 信茂はその場の人々の賞賛を得て新府城を退出し、一足先に郡内へと帰還した。勝頼一行を出迎えるためであった。

 高遠から韮崎までは一日の距離である。既に上原城は勝頼が自らの手で焼き払い諏方湖畔に高島城があるのみだったが、高島に籠もる安中七郎三郎は迫り来る織田源三郎信房の一隊に城を明け渡して没落した。この織田源三郎信房こそ、武田信玄が甲府に拉致して養育していた信長五男御坊丸その人であった。源三郎は信忠の一隊として犬山の兵を率い、もう二度と見ることがないと思っていた甲斐の一歩手前まで迫っていたのである。しかし源三郎はここから行き先を佐久方面に指定され、その方面の鎮撫に当たっている。永年武田に養育されていた前歴があったので、甲斐入国を忌避されたものであろうか。

 信忠は高遠城を落とした余勢を駆って諏方に雪崩れ込んだ。諏方大社は勝頼が天正六、七年(一五七八、九)に、信濃中の郷村に課税して社殿に修造を加えていた。武田分国の棟別銭は他国と比較して高額であって、かつそのころは領土の拡大を伴わない軍役が重なっていた時節柄、人々は検地や人足改めを渋るなどしてなんとか諏方大社修造の課役と課税を逃れようと躍起になったが、勝頼は強い決意のもとこれを断行している。勝頼一家が落慶供養に赴いたという壮麗な社殿の威容は他国に聞こえるものであって、これを焼き払うことは、武田家調伏を京畿の社寺に命じた織田家にとって命題であった。大社は乱入した織田の兵によって散々に打ち壊され火を放たれた。この様子は新府城本丸御殿からも望見出来た。

 勝頼が上原を引き払って新府に帰還して以来、慌ただしく心が落ち着くということのなかったりんである。少しの物音でも目が覚めるようになっていた。その日は、女中達が立ち騒ぐ物音で目を覚ました。

「いったいどうしたというのです」

 林は床を出たままの姿で、女中達が足を運ぶ本丸御殿の外へと裸足のまま駆け出ると、夜も明け切らぬ西の空を焦がすように、何かが赤く燃えている。

「あれは、諏方の大社がある方角ではありませんか!」

 林は周囲の女中衆に言うと、女達はその強い語気に圧されて、まるで自分達が叱責されているものの如く恐縮し、伏すばかりである。

 すると殺気を帯びた侍衆が口々に

「城に火を放つ。荷をまとめろ」

 と怒号して回る声が聞こえてきた。

 勝頼は具足に身を包んだままの姿で、その侍衆の中に交じって辺りを巡検している。

 勝頼は林の姿を見つけるや、

「このようなところに裸足で飛び出し、何をやっているのか」

 と少し強い口調で咎めたが、林が不安のために表情を曇らせながら

「諏方の大社が・・・・・・」

 と訴えるように言うと、勝頼は

「他国の兇徒が諏方の大社に火を放ったのであろう。愚かな所業である。諏方明神の神罰を自ら招来するも同然の愚行だ」

 と唾棄するように言ったあと、

「そなたもすぐに身形を調えここを退く準備をせよ。なに、大事ない。夫馬ぶうま、駕籠かきを急ぎ招集しておる。足のことは心配する必要はない」

 と、林を安心させようと表情を柔らかくした。

 しかし諏方大社に火が放たれたということは、敵は既に目と鼻の先に迫っているということを示していた。新府城における籠城戦を諦め郡内入りを決定した勝頼は、出来れば一刻も早くこの場を離れたかったはずである。そういった内心の焦りと、林を安心させるために作った殊更柔らかい表情が、勝頼の顔をおかしな表情に歪めていた。勝頼は林に避難準備を促すと、すぐに強張った表情に戻って、自ら諸方に

「すぐに城を引き払う。身辺の準備をせよ」

 と呼ばわり回ったのであった。

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