甲相手切(一)

 光秀による丹波平定はこれにより大詰めを迎えることになるのであるが、丹波平定の彼岸が見えたころ、摂津伊丹の荒木村重が突如として信長に叛旗を翻す。謀叛の原因は様々語られており諸説あって一致を見ていないが、ともかくもこの地域の重要性に鑑みれば村重の謀叛は信長にとって到底看過できる性質のものではなかった。

 右のとおり明智光秀による丹波平定戦は大詰め、羽柴秀吉は播磨方面に歴戦している最中であり、石山に籠もる一向宗門徒は西の大国毛利の支援を受けながら織田勢の包囲攻城に屈する気配のなかったころである。これら各方面のちょうど中央部に位置する荒木村重一党の謀叛拡大をこれ以上許せば、これらの戦線が一挙に崩壊して多年にわたる経営が水泡に帰する危機であった。このように上洛戦の次は畿内の諸敵掃討、身内の裏切り、その次は中国毛利氏との戦いと、信長の前に次から次に敵が現れ、勝頼は信長がそういった敵と激闘を繰り広げている間隙を縫って必死に国内を手当し、来たるべき織田方による侵攻に備えている、という情勢であった。 

 さて武田家においてはこのような情勢を踏まえて、今年一年の方針を決定する軍議が開催された。もとより軍議であるから緊張感を伴うものであって然るべきではあるのだけれども、この年の軍議は特有の緊張感に加えて波乱含みであった。

 同盟国の北条、上杉に加え鞆の浦に所在する将軍義昭、それを庇護する毛利輝元などとの取次を務める典厩信豊、跡部大炊助が頭書の如き各国の情勢を報告し、それを踏まえての大まかな方向性を示すや、穴山玄蕃頭信君或いは小山田左兵衛尉信茂などがこれに反駁して一向に意見がまとまらないという局面が目立つものであった。

 小山田左兵衛尉はともかく、穴山信君が信豊や跡部に反駁を加えたのは、曾て京畿にあった友邦が信長によって攻め滅ぼされ、こういった取次先諸侯との交渉を担わなくなり家中における発言力を失ったやっかみによるものであったから始末が悪い。殊に、西への攻め口を美濃とするか遠州とするかで紛糾した際には、信君がそのいずれにも難色を示したことに対して跡部大炊助が

「しかしいずれかの方面に軍を動かさなければ、やがて我等甲斐一国に逼塞するより他になくなるでしょう。幸い昨年の越後錯乱に際して上杉景勝と和睦を取り結んだ折、黄金十万両を当家に贈呈する旨の約束を取り付けております。それだけあれば軍役諸衆の軍装を調えることも・・・・・・」

 とまでいうと、穴山信君は目を剥いて跡部大炊助を睨めつけながら

「文吏めが! 恥さらしなことを申すでないわ! 算盤そろばん勘定ばかりのそちには分からんだろうが我等黄金によっていくさするにあらず。鑓を以ていくさするものぞ!」 

 と大喝するなど、およそ建設的とは言い難い感情的な遣り取りが見られた。しかも信君のこの言葉には、先代信玄のころより武辺を以て知られた小山田左兵衛尉信茂などが大いに肯いて

「左様。全く以て穴山殿の言うとおりだ。それがし北条と国境を接するものであるが、昨年末頃から甲相手切間近などと惑説が飛び交って諸衆が苦しんでおる。下賤の者の詰まらぬ噂話と捨て置いたが、黄金を受領して景勝と和睦したなどと貴公の口から聞くと、惑説も惑説でないように思われる。貴公はいったい如何ほど越後の黄金を手にしたのか」

 と穴山に賛同し、溜まりに溜まっていた日頃の鬱憤を口に出したのであった。勝頼はこの感情的な遣り取りのなかに紛れ込んだ惑説という言葉が気に掛かった。

 一瞬、

「惑説とはどういったものか」

 という言葉が勝頼の口を衝いて出そうになった。

 越後錯乱に接しての氏政の不誠実な対応が父信玄の予言した裏切りの予兆のように思われたというのもあったし、紛糾しつつある軍議を元々の筋に戻すことを考え併せたならば自らが口を差し挟むべきではないか、とも思われたが、勝頼は寸手のところで口を噤んだ。亡き信玄の軍議の席における姿を思い出したのだ。信玄は攻め口を巡って諸将が紛糾した場合であっても自らは決して口を差し挟まなかった。口を開いたとしても、威厳を湛えた低い声で

「汝はどう考えるか」

 とか、

「他に意見はないか」

 と諮るだけであった。

 そのように各自意見を述べさせると、軍議は自然と一つの方向に収斂されていった。

 信玄は最後に

「攻め口はどこそこにする。先陣は誰某に命ずる。一同、大儀であった」

 と述べて散会を告げるだけでよかった。

 勝頼はこのように紛糾している席だからこそ、そういった信玄の姿を思い出し、敢えて口を挟むことをやめたのであった。このようにともすれば長引きがちだった軍議は紆余曲折を経て、

「上杉景勝、北条氏政との同盟を重んじ後背を固め、中国の毛利輝元と連絡を取り合い信長を牽制しつつ、攻め口を遠州の徳川に定める」

 といった常識的な路線に落ち着いた。

 勝頼は次いで

「嫡子太郎信勝の具足召し始めの儀であるが」

 と切り出した。

 信勝も今年で十三に達する。その話が上がるに適当な頃合ではあった。したがって諸将は特にこれを不審に思わなかったが勝頼の存念は少し違うものであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る