甲相手切(二)

 勝頼にとって信長は宿敵ともいえる存在であったが、勢い込んで挑んだ長篠戦役で大敗を喫し、今やその国力差は覆しがたいほど開いていた。聞けば信長は、政庁を岐阜から近江に移して安土山と称する琵琶湖東岸の小山に新たな居城を建設中であるという。現地に放っていた透破すっぱからは、巨石を幾重にも重ねて土台とし、高さ八間(約十五メートル)にもなる本柱を打ち立てている様子から、少なくともその高さを越える楼閣を備えた、相当な巨郭となる見込みである、とも伝えられた。そのような巨郭を建設できるほどの経済力。穴山信君などは

「黄金によっていくさするにあらず」 

 と息巻いているが、それなど言葉の応酬の中で出た壮語に過ぎないことは信君でなくとも百も承知の事実であり、到底敵し得ないことなど勝頼をして自明なのであった。戈を交えて勝利が覚束ない相手である以上、信長との和睦も選択肢の一つである。勝頼には和睦に向けて成算があった。太郎信勝への家督譲渡である。太郎信勝の生母、つまり勝頼の前妻かつは信長の養女であった。信玄生前に甲濃の友誼の証として勝頼の許に輿入れした勝は、この入輿に先立ち箔を付けるため一旦信長の養女となった経緯があった。勝は元亀二年(一五七一)九月に病死したが、その子信勝は信長にとって孫に当たる人物ということになる。

(自分が身を引き、信勝に家督を譲れば或いは信長の態度も軟化するかもしれん)

 と勝頼は考えた。勝頼にとっては上杉や北条との同盟、徳川との角逐など、現在の武田を取り巻く諸問題を解決するための戦いとはすなわち、来るべき信勝治世において信長との和睦交渉を優位に進めるための布石に他ならなかった。勝頼は

(将来の武田家にとって少しでも有利な情勢を創り出すのが自分の役割だ。将来信長が和睦の条件として自分の頸を求めてきたならば、差し出してやっても良い)

 とすら考えていた。

 しかし気懸かりがひとつ。元服前とはいえ、信勝に家督を相続する気があるのかと思われるほど覇気に欠けるきらいが見受けられることである。勝頼は信勝に対し、一度試みに武田が大を成すには如何にすれば良いかを諮問したことがある。勝頼は信勝の口から覇気のある言葉の一つでも期待したものであるが、信勝は勝頼の諮問に接して何事か考え込むようにだんまりを決め込んでしまったのであった。

「遠慮することはない」

 と差し向けてみても同じであった。勝頼はそれ以上信勝を追及することはなかったが、それ以来後継者たるに相応しい見識を有しているか甚だ心許ない印象を抱いたのであった。

(元服したならば或いは・・・・・・)

 勝頼は、武田の後継者としての自覚を促す意図のもと本年中の具足召し始め執行を諮ったのであった。攻め口を巡る議論とは異なり、そのことについて異論は出なかった。 

 それから二十日を経たころのことである。駿河江尻城に帰還していた穴山信君の耳に、駿豆国境で流れる「惑説」が入った。不確かな情報であったが、東から西に向けて身形の良い一行が殊更急ぐこともなく、ゆっくりゆっくりと歩き去って行ったというものであった。一行は丁重に包まれた三尺ほどの長物、贈答用と思しき芦毛の駿馬、鳥籠を携えていたという。話はそれで終わりであった。これを聞いた信君は、今度は小山城兵に対しそのような一行が駿遠国境を越えたか否かを問い合わせた。一行がそのまま西へと流れて駿河を横断したというのなら、小山城兵がそれを目撃しているに違いないと考えたからであった。問い合わせた結果、城兵のうちの何名かはそういった一行の姿を遠目に見たが、それが何者かを確認した者はいなかった。遠江の高天神城が家康の重囲に陥っている状況下、小山城兵はたとえ非番であっても外出が禁じられている折であったので、これはやむを得ないことであった。しかし信君にとってはその情報だけで十分であった。この情報は一行が駿豆国境を東から西に行き、更に駿遠国境に達したことは間違いと信君をして確信させた。

(或いは、北条と織田徳川が手を結びつつあるか)

 信君はそのような危惧を抱いた。もしそのような事態に至れば駿河はどうなってしまうだろうか。既に高天神城は家康の包囲に陥っており、前線は遠州から駿河に移っていた。この上更に北条を敵に回さんか、駿河は東西から北条及び徳川の挟撃にさらされるであろう。信君は甲府に使者を放った。伊豆方面から贈答品と思しき品々を携えた一行がやってきて、駿河を横断して遠江に抜けたこと、これは北条から徳川への使者と疑われること、北条の動静に注意することを告げるためであった。

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