後の巻 第二章 甲相死闘

天下の情勢

 新年(天正七年)を迎えたころの武田を巡る各国の情勢は以下のようであった。

 まず越後方面。昨年勃発した御館の乱は依然継続中であったが、このころ既に景虎にとっての頼みの綱だった北条氏政氏直父子は小田原に逼塞しており、景勝の優位は動かしがたいものとなっていた。昨年末からはその景勝と勝頼妹菊姫の婚約が進められ、勝頼は越後において勝利を収めつつあった景勝との間柄を入魂のものにしようとしていた。景勝の勝利間近を意識して、かねてからの縁談を進めようと意図したものであろうか。

 このように上杉との関係強化を企図する勝頼であったが、文字どおり国を二分した大乱を経て、先代謙信が晩年、能登、越中に築き上げた勢力圏は信長麾下柴田修理亮勝家に蚕食されており、この方面における上杉の退潮はどうにも押し止めようがない情勢であった。

 次に北条家との関係である。御館の乱に接し、勝頼が積極的に景虎に合力しなかった経緯は前に陳べたとおりだ。御館に追い詰められつつあった景虎を、氏政もまた遂に積極的に扶けることはなかった。まもなく甲相は手切てぎれ(同盟破棄)に至るのであるが、その際氏政は

「越後錯乱以来勝頼とは敵対同然であったが堪忍してきた。しかし勝頼が駿豆国境に築城したことでどうにもならなくなった」

 と家中衆に宛てて文書を発給している。

 一応御館の乱を手切理由の一つに挙げてはいるが、これのみを唯一の理由とはしていない。むしろそのことについては堪忍してきた、と綴られている。氏政にとって御館の乱に際しての勝頼の行動は、我慢できる範疇だったということだ。自らも景虎を救援しなかったのだから、本心はもちろん、建前上でも勝頼の行動を甲相同盟破棄の理由には挙げることは、氏政には殊更出来ない主張であった。このことからも、勝頼の三和交渉という動きが重大な過誤であったとは到底いえまい。

 確かに勝頼は氏政に対して

「いつか裏切る」

 という猜疑心を抱いていたし、氏政は氏政で勝頼に対し

「敵対同然」

 と鬱憤を抱いていた。

 しかし双方の思惑がどうであれ、正月八日には勝頼と当代氏直の間で年始贈答がおこなわれており、甲相同盟は天正七年初頭の時点では表面上は平穏であった。

 武田家の懸案ともいえる遠江方面はどうだっただろうか。勝頼が越後に出陣していたさなか、徳川家康はその間隙を衝く形で遠江に出張り、高天神城包囲の付城構築に着手した。勝頼はそのために三和交渉を中途半端ともいえる形で放棄せざるを得なかった経緯があった。家康は遠州に出現した勝頼との決戦を巧みに回避して翻弄し、じわじわと高天神城を締め上げている情勢であった。後年、嫌というほど見せつけて日本の歴史をも形作った家康の老獪さはこのころから遺憾なく発揮されていたわけである。当面の敵を遠州の武田一本に絞り込んで優位の家康であったが、実はこのころ徳川家中は盤石ではなかった。家康嫡子信康と、その妻五徳の間柄が険悪なものとなっていたのである。五徳は信長の娘であった。つまり信康夫婦は織徳同盟の紐帯だったわけであり、家康は家運を賭けてその冷却した間柄を修復しなければならないという内々の問題を抱えていたのである。加えて信康が家中に築きつつある藩屛の存在も、家康にとっての脅威と捉えられていたものであろうか。

 家康はこのころ、西三河衆に対して再三再四

「岡崎城に出仕する必要はない」

 と布礼ている。

 信康は岡崎に在城しており、その嫡子の許に出仕する必要がない、と通達するなど、父子の間にのっぴきならぬ対立があったことを窺わせる異常事態である。真偽の程は定かではないが、家康正室にして信康生母築山殿が信康と共謀して謀叛を画策し、武田と内通していたとする俗説もある。長篠合戦以降、この方面での退勢を覆すことが出来なかった勝頼であったが、家康の側にも内訌が存在したのであり、相変わらず諸敵蜂起に見舞われて畿内を奔走する信長にも家康を扶けて一挙に兵を東進させる余力はまだなかった。

 その信長を悩ませていた諸敵のうちのひとつが、丹波氷上に蟠踞する赤井一族であった。一族長老だった荻野直正はもともと赤井の庶流であり、赤井氏から丹波黒井城主荻野に養子に入ったものであったが、天文二十三年(一五五四)に荻野秋清を殺害して黒井城を奪取した。

 血族を弑して城を奪った経緯からか、その果敢ないくさぶりを由来とするのかは判然としないけれども、「悪右衛門」或いは「丹波の赤鬼」の異名を取って全国に知られた名高き武士であったという。将軍義昭を奉じての信長上洛に接して一度は織田に従った悪右衛門であったが、その後信長との軋轢が生じたものか、天正二年(一五七四)には信玄勝頼連署の書状を受け取り武田と同盟し、翌年信長の侵攻を受けることになる。

 信長方の指揮官は明智光秀であった。

 もとより山がちで、山々に囲まれた盆地にようやく人の住まう丹波氷上のような小郡が光秀率いる天下の大軍を前に幾許も戦えるはずがないと思われていたものであるが、悪右衛門の武勇は並大抵のものではなく、本拠黒井城を囲まれては同じく丹波国衆波多野氏を味方に引き込んで明智軍を後背から痛撃し追い払ったり、野戦に臨んでは光秀を重囲に囲い込んで追い詰めたことすらあったと伝えられている。

 なお、明智光秀による黒井城包囲戦に際して織田方を見限った波多野氏はその後も抵抗を続け、一族郎党残らず八上城に族滅するまで光秀を散々に悩ませ続けた。自らの一門にまで犠牲者を出してまで丹波攻略を成し遂げた光秀が、後年信長によって丹波を取り上げられたことによって本能寺の変を決意したのだとする史書もあるほど丹波国衆の抵抗は激烈であった。悪右衛門個人の武勇も全国に響き渡るものであっただろうが、その反骨心を育んだのは、京畿近辺にあってなお山々を防壁に独立不羈どくりつふきを保った丹波という土地柄にあったのだろう。しかし激闘数年、悪右衛門は明智軍とのいくさで負った疵がもとで天正六年(一五七八)三月に病死する。

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