三和交渉(二)

 武田が本営を構える屋敷に入った景虎方の光徹は、山浦国清が既に和睦交渉の席に着座している様を見るや

「早々武田の膝下に屈するとは山浦殿らしくもない。二度まで信玄を破った親父殿に恥ずかしくないのか」 

 と嫌味を言った。

 光徹が言った親父殿とは、山浦国清の父親にして北信葛尾城元城主村上義清である。上田原合戦と砥石城攻防戦において武田晴信を破りながら、真田喜兵衛尉昌幸の父幸綱の調略に遭って居城を逐われ、長尾景虎を頼った北信の勇将であった。越後において義清は客将として遇され、家中での席次は高位であった。二度までも武田を破った経歴と、八幡原の戦いで武田の副将典厩信繁を討ち取ったことが義清の家中における地位を不動のものとしたのであろう。国清はその嫡男であり四年前に亡くなった義清を後継していた。母親が山浦上杉の血脈を引いていたことから、山浦姓を名乗ったものであった。

 国清は斯くの如く景勝派における席次高位、以て景勝全権を任され、この和睦交渉の席に就いたものであった。光徹の発言はこの国清の誇りを傷つけるものであり、国清は負けじと

「光徹様こそ、自らを平井城から放逐した兇徒氏康三男に上杉名跡を継がせようなどと、薄恥うすはじとのそしりも覚悟のうえでの御乱行ですかな」

 とやり返した。

 光徹の武将としての経歴は惨憺たるものであった。上州平井城に拠って関東管領として権勢を振るうどころか、その影響力を行使しようと佐久志賀城は笠原清繁を攻める武田晴信に軍を差し向けてみては小田井原に大敗し、北条氏康の連年の派兵の前に敗退を繰り返しては平井城を失陥し、良いところのひとつもなく越後に落ち延びた過去があった。謂わば打倒北条、打倒武田は光徹の悲願だったはずで、そのために越後に落ち延びてきたようなものであったのだが、越後で過ごした二十年という歳月によって光徹は容赦なく越後国内の力学に飲み込まれてしまっていたのである。三郎景虎が、自らを越後に逐った北条氏康の実子であると知りながら、越後上杉家中における力学の中で景虎派に属することを選んだ光徹にとって、国清の口にした嫌味は到底許容できないものであった。

 光徹は己が放った要らざるひと言が不毛な嫌味の応酬を惹起したことも忘れ、打刀うちがたなの柄に手をかけながら

「おのれ小童! 雑言を!」

 と啖呵を切ると、国清も同じように構えた。

 このように交渉はのっけから波乱含みであったが、そこへ現れたのが武田全権跡部大炊助なのであった。

「両者おやめなされ。ことの次第、失礼ながら隣で聞いておりましたぞ。まことみっともない。武田家においては御先代法性院殿(信玄)の御代より喧嘩両成敗を旨としております。この場にて斬り結ぶというならばよろしい。喧嘩両成敗よろしく双方共にこの武田が成敗して進ぜよう。そうは言うがいやしくも我が武田家、口舌を以て理非を論じようという者を無下にあしらうものでもない。望んでこの場にあるうえは、双方ほこを収め弁舌に拠って理非を顕かにされるがよい」

 などと、軍兵ぐんぴょう大なるを笠に着て威厳たっぷりに申し向けると、国清、光徹共に跡部大炊助に対して

(癪に障る武田の文吏よ)

 という心持ちを抱いた。殊に前関東管領山内上杉直系上杉光徹などは

(甲斐守護代の家柄に過ぎぬ跡部如きが何を偉そうに)

 と近年ない怒気を含みながらもこれを肚の裡に隠して、ここに景勝景虎に勝頼を含めた三和交渉が開始されたのである。

 その席上、跡部は勝頼の存念を明らかにした。即ち


 一、勝頼は景勝、景虎双方と疎遠にしないことを誓う。

 一、今より以後、勝頼は景勝及び景虎に二心を抱かず浮沈を共にする覚悟である。景勝景虎双方の家中衆とも懇意にする。

 一、武田家中の貴賤より、景勝及び景虎に敵対すべき旨申し出があっても受け付けず、その者を成敗する。

 一、景勝及び景虎は、勝頼に対して讒言する者あれば当方に報せるべきであって、不要の遺恨を抱いてはならない。

 一、景勝及び景虎が難儀に遭遇したら、勝頼は必ず扶ける。したがって勝頼が難儀に遭遇すれば、双方共に勝頼に助勢すべきである。

 一、上の難儀からは、景勝及び景虎、そして勝頼は除外する。

 一、縁談は事前に取り決めたように進める。


 という七箇条を示したのである。

 景勝派、景虎派双方とも、勝頼が示した上記七箇条について、

「それは良うござるが、上杉家督についての勝頼公存念は那辺にあるのか。これでは全く分からん」

 と口を揃えた。

 もとより三和が前提の交渉であり、景勝景虎いずれにも合力しないことを旨とする武田全権跡部大炊助は

「戦乱が長引くのは諸人の苦しみである。それを除くために越したもので、武田が上杉の家督相続などに口を出す謂われはない。それともこの場でそれがしが謙信公後継を名指しすれば、双方納得してそれに従うとでも言うのですかな」

 といった。

 跡部大炊助の言い分は上杉の家督相続問題に局限して見れば確かに正論ではあったが、殊更相手の感情を逆撫でするものの言い方であった。しかもこの度の越後錯乱の本質――景勝と景虎の家督相続争い――を捉え損ねている。否、その本質を知悉しておりながら敢えて言及を避けたといった方が正しい。よしんばこの場にて景勝景虎いずれが家督を相続するかについて決着を見たとしても、既に敵味方に分かれて殺し合っているそれぞれの派の諸衆が話し合いによる結着になど納得するはずがない。結局殺し合いを伴う争いは殺し合いによってでしか解決できないのであり、武田は相争っている双方を大きく上回る軍事力をちらつかせながら強引にその幕引きを図ろうとしたに過ぎない。武田の和睦指向を両者に押し付けただけなのである。押し付けられた山浦国清と上杉光徹は表面上和睦に合意したが、それはこの場を取り繕う儀式以上の意味を持たないものであった。

 勝頼は

「景勝景虎いずれにも合力せず三和を取りまとめる」

 という所期の目的を文書上では果たしたものであるが、越後錯乱は収束する気配がなかった。双方の勢力は越後各所で依然激闘を繰り広げていた。三和はほんの数日で破綻が明白となった。

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