長篠の戦い(十六)

 勝頼本陣を払った原隼人佑昌胤は、自らの部隊が布陣する竹広へと舞い戻った。そこでは陣城から溢れ出てきた徳川方榊原康政隊と、すっかり数を減じた自らの部隊が激闘を繰り広げているところであった。昌胤は麾下将兵を叱咤して、一時的に榊原康政隊を後退させることに成功した。

「いまのうちに落ち延びられよ」

 麾下将兵は昌胤に勧めたが、昌胤は

「そなた等こそ落ち延びて、後日を期せ」

 と、勧めに従う様子がない。

 今回の敗戦について昌胤は、その原因を敵方との戦力差にあると考えていた。馬場信春が提唱した持久策を採ったとしても勝敗の程が五分五分の戦力差であったのに、野戦でこれに挑み掛かって勝てる道理など端からなかったのである。

 したがって昌胤は

「自分には武田の陣馬奉行としての責任がある。討死うちじにしてその責任を取る」

 などというつもりはなかった。

 陣馬奉行という役職は、合戦に際して味方が有利になるよう布陣地を選定したり、そこに陣城を構築するのが職分であった。今回の場合、連吾川沿岸に敵主力同様陣城を構築することが陣馬奉行たる昌胤の所掌事務であった。

 しかし鳶ヶ巣山砦郡へと襲いかかった敵別働隊のことを考えると、この連吾川沿いに陣城を構築したからとて何の意味もないことは明らかであった。一応陣馬奉行として最善の布陣をしたが、戦いの帰趨は始まる前から決していたのである。

 だから自分が敗戦の責任を取るというのは筋が違うし、かえって戦死者への礼を失するおこないだと昌胤は考えた。

 したがって味方が大きく崩れた以上、もはやその敗戦の要因であるとか、自分の所掌事務であるとか、自らが背負うべき責任などという小難しいことについてあれこれと考えを巡らせることを昌胤はやめた。彼はただ一人の武士として得物を振るうことを心懸けた。

 昌胤は敵の矢弾から身を隠すなんの工夫もしなかった。もし自分が生き残る運命にあるのなら、そういったものが自分に命中することはないだろうし、死ぬ運命にあるのならどのような工夫をしたとて死んでしまうものだと覚悟を決めたからであった。

 もし勝頼がこのときの昌胤と面会したならば、その顔貌に浮かぶ死相に、驚愕したことであろう。

 昌胤は自らの部隊をひと塊にまとめて後退を命じた。数度にわたり執拗に追い縋ってくる敵部隊を、そのたびごとに撃退した原昌胤の部隊は疲労甚だしかった。昌胤は本能的に台地の上を目指して後退を始めた。出来るだけ高所に陣取り、困難な撤退戦を少しでも有利に展開しようという武士としての本能であった。

 昌胤は激しく息をつく騎馬を励ましようやく台地の頂上に立った。振り返った昌胤は、台地の麓で敵方の鉄炮衆が、銃口をずらりとこちらに向けて並べている光景を目にした。これらが一斉に火を噴き、昌胤の視界が白煙に包まれたのが、彼の見た最後の景色となった。


 味方中央隊と左翼を連結する要所、柳田に布陣していた内藤修理亮昌秀は、原隼人佑昌胤などとは少し違った心持ちでこの撤退戦を戦っていた。端的にいうと、昌秀はこの戦いで死ぬつもりであった。

 勝頼が家督を相続した直後から、昌秀は非常な不安に陥っていた。いうまでもなく、武田の重臣としての立場を保障する最大にして唯一の根拠である信玄を失ったからであった。そのことは昌秀を恐慌に陥れた。

 まだ昌秀が工藤源左衛門尉と名乗っていた若年のころ、父工藤虎吉が先々代信虎の勘気を蒙って手打ちの憂き目に遭い、源左衛門尉は兄昌祐と共に甲斐を出奔、流浪を強いられた。

 天候不順により飢饉が打ち続く関東で、行くあてもなく流浪する旅は若い源左衛門尉にとって辛いものであった。食料を、何日も口に運ぶことが出来ないということもあった。飢えて亡くなった農村の人々の遺体が、そこかしこに放置されている光景が目の前に広がっていた。

 まさに、明日をも知れぬ命であった。

 あばら家同然の小屋で日々を消光していた兄弟の許に、身形の整った武士が一騎、現れた。

(武田の追っ手か)

 兄弟は斬られることを覚悟した。

「工藤兄弟であるか」

 武士は問うた。

 昌祐は声を震わせながらこたえた。

「そうだ。武田信虎に誅された工藤虎吉の子である。如何なる咎によって斬るのか」

「斬る? さにあらず。武田は代替わりした。長く不自由を掛けた。甲斐に戻られよ」

 武田の侍は、きょとんとする兄弟に、武田は信虎から嫡男晴信に代替わりしたことを語って聞かせた。

 新主のもと、知行地を宛がわれ生活を保証された昌秀は必死になって立ち働いた。

 父虎吉と先代信虎の間に如何なる確執があったかのは知らぬ。兎も角も安定した生活を保証してくれる晴信に忠節を尽くすことが、あの辛かった流浪の旅に逆戻りしないために最も重要なことだと昌秀は考えたのであった。

 昌秀は頭角を現し、いつしか武田の副将と呼ばれるほどの重鎮となっていた。

 その昌秀にとって信玄の死は自らの地歩を危うくする事態であった。自らの身分を保障する最大の根拠を失ったからであった。

 新主勝頼はその昌秀の不安を煽るかのように、跡部大炊助や長坂釣閑斎をこれ見よがしに重用した。

 一応勝頼から

「侫人の讒言は用いない。勝頼のためを思って意見するなら重用する」

 という起請文を得た昌秀であったが、勝頼が跡部や長坂を重用する姿勢に変化はなかった。事実この戦いも、長坂釣閑斎が強く決戦を主張し、勝頼が指示したことから生起したものであった。

 この戦いで、勝頼の戦域離脱を見届け戦死を遂げることが、いまや昌秀の目的と化していた。

 昌秀は自らが布陣した天王山から一歩も動かなかった。昌秀が後ろを振り返ると、勝頼が本陣を置いていた才ノ神に旌旗は見当たらない。どうやら撤退したらしかった。

 数刻の激闘を経て、一時は敵の三重柵の二重目までを突破した内藤隊であったが、蒙った損害も大きく、徳川主力たる石川数正隊や本田忠勝隊、また徳川を支えるべく配置されていた滝川一益隊との激闘を支えるのがやっとであった。昌秀自身も打物を手に、敵の来襲に備えた。

 昌秀が指揮を執る部隊中央にも激しく矢が射込まれるようになった。昌秀が着する具足の袖や草摺くさずりに一本二本と矢が突き立てられる。昌秀は打物を手に微動だにしない。昌秀は意地でも退かない決意であった。

 一本の矢が、面頬より僅かに覗く昌秀の眉間に突き立てられた。それを合図とするかのように、夥しい数の矢が昌秀本営と、そして昌秀自身に射込まれた。意地を貫き通した結果、昌秀は全身に竹矢を浴び、簑を着たような姿で絶命したと伝わる。


 さて全軍が崩壊するより少し前に話は遡る。甲軍右翼での出来事である。ここは信長主力と相対して、馬場、土屋、一条などが激闘を繰り広げていた戦場であった。くだんの陣城に激しく攻め寄せ、そのたびごとに大きな損害を蒙り退いた甲軍を、背後から支えていたのは甲斐河内衆を率いる穴山玄蕃頭信君であった。信君は雁峰山がんぽうさんを背に、その麓に布陣して前線の激闘を観戦するだけで自らの将兵を動かすことがなかった。穴山衆諏訪部助右衛門尉などは

「いまは御味方総出で敵陣を食い破ろうと奮戦している最中です。我等も押し出して馬場殿なり土屋殿に合力しましょう」

 と進言したが、信君は

「わしは最初から決戦には反対していたのだ。このような愚かな戦いで麾下を死なせるつもりはわしにはない。動くな」

 と言って、味方に合力する気配がない。諏訪部はこんな信君に呆れ、且つ焦れて、ひとり敵陣に向け駆け入り、戦死を遂げたという。

 その信君の目の前で、戦線が崩壊しつつあった。本来であればこういった部隊の背後に構え自ら押し出し、全軍の崩壊を防ぐのが穴山隊に割り振られた任務であった。前線部隊を督戦するという、一門筆頭に与えられた任務を全うするために、後方に布陣することを許されている立場なのである。その穴山隊が、前軍を支えることもせず、敵とまともに干戈を交えることすらなく、背後に聳える雁峰山に向け撤退を開始したのは、勝頼本陣が撤収準備のために大わらわになっているときであった。

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