長篠の戦い(十五)

 撤退戦は、ときとして前進し敵を撃砕するより困難を伴うものである。特に信玄以来戦勝を繰り返してきた甲軍にとって、かかる撤退戦はほとんど初めてといって良い経験であった。事実、二十五年前の砥石崩れを経験した将は、馬場美濃守、内藤修理亮など数えるほどしかいない。兵卒ともなれば尚更であった。

 これまで主要な戦役で先陣を命じられてきた山県三郎兵衛尉昌景は、この撤退戦が困難を極めるであろうこと、そして自分自身がこれまでそのような局面に身を置かなかったことを想い、そうであればこそ、慣れない撤退戦を戦うというよりは、先陣を命じられたときの如く前進して戦うことを心に決めていた。

 その昌景の胸に

「日頃鍛錬しておれば、負けいくさだからとて俄に陣が崩れ立つものではない」

 という、一本芯の通った野太い声が聞こえてきた。砥石崩れの混乱のなか、殿軍を引き受け散った横田備中守高松たかとしの声であった。

 山県隊は昌景の指揮のもと固く陣を組んで、崩れたつ甲軍を飲み込む濃尾兵の奔流に抗うように、じわりじわりと前進した。

 織田の兵卒とて、これまで多数の戦勝を経験しており、負けいくさで崩れたった敵方を追撃し撃砕することがいとやすいことを知悉してはいたが、今日の甲軍とりわけ山県三郎兵衛尉昌景率いる一隊は過去に撃ち破ってきた如何なる相手とも異なり、剛強でしかもしぶとく、舌を巻いた。

 彼等のこれまでの経験則でいえば、勝ち戦の奔流はその場に踏み止まって戦おうという士気の高い一部の敵を、あっと言う間に飲み込み撃砕してしまうものだった。その勢いを押し止めようという如何なる試みも無力化される、文字どおりの奔流であった。

 それが、いま目の前にある山県昌景の一隊は違った。崩れたつどころか、その奔流に逆らってこちらに踏み込んできたのである。このために追撃の織田兵は足を止めて、こちらも陣を組んで山県隊に当たらなければならなくなった。追撃の足が止まったのだ。

 昌景はかかる危急にあたって、いつもはしないようなことを特別にやってやろうとは考えていなかった。昌景は麾下馬上衆に、敵陣への乗り入れを命じた。それは鑓を合わせた敵に怯む様子が見られたとき、間髪いれず昌景が振るういつもの采配と同じであった。危急であればこそ、いつもどおりの采配を心懸けたのである。

 昌景自慢の馬上之衆は、手練の馬術を遺憾なく発揮した。挑発に乗って出張ってきた敵に追われ、或いは追い、敵陣に乱れが生じたそのとき、昌景は総掛かりの采配を振るった。山県隊は、散々練り倒された鬱憤を晴らすには、敵が陣城を捨てて生身の姿を暴露したいまをおいて他にないとばかりに奮闘した。馬上衆は寄り集まって敵陣に横入よこいれを加え、その陣立てをかき乱した。馬上衆のあとが続けば、敵の潰乱は必至の戦況であった。昌景もそのことを看破して自ら鑓を取り敵陣に駆け入った。

 しかし敵は穿たれた一点を、豊富な予備兵力によって即座に埋め戻すことに成功した。翻ってこれまでの激戦で人数を減らしていた山県隊は、穿った一点を押し広げることが出来ない。山県隊はたちまち敵の重囲に陥ってしまった。

 織田兵は、馬上で指揮を執る昌景を見て

「身形は小さいが徒者ただものではない。あれほどの侍を鉄炮で撃ち落とすものではないぞ」

 と口々に語らい、打物を手に肉弾戦を挑み掛かる者数多あまたに及ぶ。手練の山県隊はこれをあしらうが、多勢に無勢、なんとか重囲を切り抜けたときには数えるまでに人数を減らしていた。それでも前に進むより他に戦い方を知らない昌景は、

「再び敵陣営に駆け入る」

 と下知し、乗馬を励ました。

 織田方では、再び敵馬上衆の乗り入れかと警戒し、昌景ほどの将を鉄炮で撃つべきではないという前言を撤回して、鉄炮衆が昌景の一団に向かって斉射した。数発が、先頭を走る昌景に命中した。昌景はたまらず落馬した。

 ここに、撤退戦のなかでも前進し、敵の追撃の足を止める、という昌景の試みは潰えた。

 昌景麾下志村又右衛門尉光家は、いまや虫の息となった主人あるじ昌景を担いで黒畑阿弥陀堂へと運び込んだ。この際、昌景が小身痩躯であることは又右衛門尉にとっては幸いであった。

 しかし阿弥陀堂に運び込まれ、落ち着いて負傷の程度を観察すると、その傷は手の施しようがないものであることが明らかとなった。

 昌景は

「もはや助かるまい。これまで敵とはいえ数多の命を断ってきた報いである。死は覚悟の上ではあるが、冷え頸を敵に授ける恥辱は堪え難い。決して敵に渡すな」

 と言い遺して事切れた。

 又右衛門尉は昌景の頸を落とし、供養を依頼する書状と共にこれを隠して、自身は甲斐に向けて落ち延びた。


 なんとか前進して戦局を打開しようとした昌景と比較すると、砥石崩れを経験したことがあるだけに馬場美濃守信春の戦い方は幾分老獪であった。

 信春も手の者が数を減じ、困難な戦いを強いられていることに違いはなかったが、彼は設楽ヶ原一帯に窪地が多くあることに目を付け、麾下の兵卒のまとまった数を窪地に隠した。

 信春は敵陣に向かって

「信州牧之島城代馬場美濃守である。討ち取って手柄とせよ」

 と大いに呼ばわり、手柄を欲する敵を誘い込んだ。

 今回の戦いでは、織田徳川の将兵は陣城に固く籠もって鉄炮を撃ちかけることに労力を費やし、組討くみうちによって功名を挙げるということがなかった。したがって敵頸を多く獲る機会は、この追撃戦をおいて他になかったわけである。しかも目の前に兜頸を置き我先にと抜け駆けを試みる織田の兵の足並みは乱れがちであった。

 信春はそこに目を付けた。

 名のある大将を組討に討ち取ろうとすれば、鉄炮を撃ちかけるような真似はしないものだ。追撃は自然肉弾戦となった。

 織田の兵がまさに馬場美濃守に肉迫したそのときである。窪地に身を潜めていた甲軍が、信春の頸を獲ようと突出してきた数名の織田兵を、寄ってたかってあっという間に屠り去ってしまった。

 その凄惨な光景に、勢い込んで追撃しようという織田兵の足が止まった。その間に信春一党は二三町(約二二〇メートルから三三〇メートル)引き退いた。信春はそこでは窪地に兵を隠さなかった。

 織田兵は恐慌から立ち直ると、馬場美濃守に対する追撃を再開した。見ると、先ほど同様馬場美濃守が馬上に泰然と構えている。その周囲には窪地。

 織田兵の足が止まった。またぞろ窪地に伏兵を隠しているのではないかと勘繰ったためである。

 信春一党はその隙に、更に二三町引き退いた。

 一間鮮やかに見える隠れ遊びの戦術であったが、信春はこの戦術も一定の効果を発揮した後は敵に見破られ、通用しなくなるだろうことを覚悟していた。

「信長を討ち取ろうと思えば、打って出る必要はない。信濃深く引き込んで討ち取ればよい」

 信春は、信玄遺言を思い出していた。信玄が信長を引き込むべしと遺言した信濃までは、まだ相当の距離があった。

 信春の一隊は次第に数を減じていった。案の定、隠れ遊びの戦術は見破られはじめ、ひとりふたりと討たれる者が出て来た。

(御屋形様、もういけません)

 信春は勝頼に対してではなく、冥府にある信玄にそう言った。

 気が付くと身の回りには鉄炮を担いだ侍がひとり、その従者と思しき中間ちゅうげん二名を残すばかりとなっていた。

「そなた、名は何と申す」

 信春は鉄炮侍に訊ねた。

「筑摩郡小池郷士草間官兵衛と申します」

「左様か。草間といえば土屋殿の与力であるな。わしはこの場に踏み止まるゆえ、御屋形様が落ち延びた方角へ向けてそなたも落ち延びよ。合力して御屋形様をお守りするのだ。犬死にして忠節の道を誤るな」

「しかし・・・・・・」

 草間官兵衛と名乗る鉄炮侍は、大身の将をその場に残して引き退くことを一瞬渋ったが、信春は

「忠節を誤るなと申した!」

 と大喝し、官兵衛に退くよう強く命じた。官兵衛は二人の中間と共に北へと逃れた。

 撤退戦が始まってから一刻ほどが経過していた。ちょうど、信春の乗馬もくたびれて進まなくなってきた頃合であった。信春は下馬して、その場に腰を下ろした。

 そこへ若い侍がひとり。織田方の兵と思われた。

「馬場美濃守信春殿とお見受けします」

「左様。そなたは」

「塙九郎左衛門尉直政麾下、河井三十郎と申す者」

 若い侍は業物を構えながら名乗り上げた。

「そうか。若いな。この頸討ち取って手柄とせよ」

 馬場美濃守は得物を手にすることもなく言った。

「名のある侍の頸を、手合わせもなく討ち取る法があろうか。いざ尋常に勝負なされよ」

 この要求に対しても、信春は

「勝負も何も、この老体。くたびれ果てて、もはや動き申さず。討てと言った相手を討ったのであれば、冷え頸と揶揄されることもあるまい。さあ、討て」

 信春は座したまま背筋を伸ばし、軽く俯くような姿勢を取った。頸を一刀の下に切り落としやすくするためと思われた。

 河井三十郎は覚悟を定めたように

「御免!」

 と言うと、一閃打物を振り下ろした。

 ここに不死身の鬼美濃と呼ばれた歴戦の将、馬場美濃守信春は戦死を遂げた。享年六十一。その最後の戦いぶりは、敵方の史料である「信長公記」ですら

「馬場美濃守の働き、比類なし」

 と激賞するほどであったという。

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