野辺送り(六)

「仏事が終われば父上はここへ帰ってこられるだけなのですから、敢えて具足など身に着けなくてもよろしいのではないですか」

 昌澄は父春日虎綱が、供の者に手伝われながら鉄黒漆塗横矧桶側五枚胴具足を装着する姿を見てそのように言った。

 昌澄のいうとおり、春日弾正忠虎綱は仏事の後に予定されている三河方面への出陣を赦免されていた。その任は嫡子昌澄が負い、虎綱は海津に在城したまま上杉謙信の南下に備えることを申し付けられていたからであった。

 昌澄は父の具足姿を見るのは久しぶりであった。このまま虎綱愛用の錆地塗の十八間星兜を装着して、隆武頬りゅうぶぼおを当てれば、曾ては頻繁に下されていた陣布礼のたびに見せた、父の勇壮な具足姿を久しぶりに見ることになるのだ。昌澄は具足を身に着けようという虎綱を言葉の上では止め立てしたが、その姿を目にしたいという心持ちもあったので、それ以上に止めることはなかった。

 加えて春日弾正が、嫡子だからとて昌澄のいうことをそう簡単に聞くとは思われなかったというのもあった。

 虎綱はといえば、その身を案じて具足を着ける必要なしと言った昌澄に対し、案の定

「馬鹿なことを申すでない昌澄。海津在城を命じられておるとはいえ、軍役諸衆を引率して参集するよう命じられているそなたとともに、府第まで同道するのだぞ。わしが平服では彼等に示しがつかん」

 と言ったあと、

「およそ下々というものは、上に立つ人間の悪しきところをこそよく見て真似るものだ。わしが軍列にありながら具足も身につけぬ姿を見れば、人々はこれぞ好機とばかりにその姿に倣うであろう」

 と続け、最後のひと言を発しようとしたとき、昌澄が先んじて言った。

「軍規の乱れである、でございましょう」

「それよ、それよ」

 春日弾正は嫡子に機先を制され、満足げであった。

 しかし、それにしても。

 旧主の三回忌法要に参列するに当たって、虎綱の心中は決して晴れやかではなかった。

 如何に越後の上杉謙信に対する備のためとはいえ、海津在城を命じられたことに虎綱は不満を抱いていた。彼には昌澄という、成年に達した立派な嫡子があるのだ。

(もしどうしても謙信へのそなえが欲しいというならば、昌澄を残置しておけばそれで足るではないか。他の城代は、出陣を命じられているというのに、わしが海津在城などと)

 今回、府第への参集を命じられた譜代家老衆――馬場美濃守や内藤修理亮、原隼人佑、土屋右衛門尉等、主だった者のうちで、在番城での待機を命じられたのは春日弾正忠虎綱ひとりといってよかった。

 面白くはないがこのような扱いを受ける心当たりはあった。

 勝頼に宛てた諫言を、甥惣次郎や、家臣大蔵彦十郎に口述筆記させ、折に触れては本国甲斐へ送り届けていた行為が、勝頼の勘気に触れたのであろう。

 その書面でやり玉に挙げられている主な者は跡部長坂両名であったが、結局はその二人の奥に見え隠れする、勝頼への諫言であった。書面に書かれた言葉は実際には勝頼に向けられた言葉なのだが、その矢表に立っている跡部長坂を標的にしているから、直截的で寸鉄人を刺す言い回しが多用されている。

 そしていま虎綱は、三河出兵の任から外されたことに対する意趣返しとして、敢えて具足を装着して府第に参集しようとしていた。

 これでは嫌われて当然である。

 旧主信玄の三回忌法要に参列するというのに、虎綱は信玄の魂魄を供養して、成仏して欲しいなどとはつゆほども思っていなかった。叶うことなら信玄に生き返ってもらって、再び采配を振るってもらいたいほどであった。

 虎綱は、今回の出師に先立ち勝頼が信玄の三回忌法要を執行するという行いが、悠長なものに思われて仕方がなかった。おそらくは内藤修理亮の如き、飽くまで信玄個人に忠節を尽くす重臣を慮って、その三回忌法要を済ませ、先代信玄を重んじる姿勢を示した後に出陣すると決議したのであろう。信玄と共に幾多の戦陣を踏んできた虎綱には、この勝頼の振る舞いは、兵法の表裏を弁えていない幼稚な行いのように思われた。信玄であれば、このような絶好の機会に際会して、如何に仏事法要とはいえ、これを疎かにしてでも出陣を急いだことであろう。大賀弥四郎が何者かは知らぬが、徳川家中に綻びが生じ、しかも信長がすぐには後詰を送って寄越せないであろう時期に、信玄の三回忌法要執行のためとはいえ、ひと月も出陣を遅らせたことが、虎綱には生ぬるい采配に思われて仕方がなかった。

(当代の危ういことと言ったらない。余の十倍も慎重に、という御先代の御遺言を、まるでお忘れのように振る舞う)

 虎綱は具足に身を固め愛馬の背に揺られつつ、このようなことを考えながら府第への道を行ったのであった。


 信玄の三回忌法要に合わせ、軍役衆を引率し府第へ参集せよ、との通達は、河内郡の穴山玄蕃頭げんばのかみ信君のぶただの許にも届けられていた。信君には、信玄近親として、そのがんを担ぐ役割が与えられていた。

 信君は今更ながら

(どうしてこのようなことになってしまったのであろう)

 という想いが、内奥から湧き上がってくるのを抑えることが出来なかった。本来この通達は、准三管領武田太郎義信からもたらされなければならないものだったはずである。

 義信事件の折、穴山家も、武田宗家と同じように二分された。信玄に従い南進策を推進する信君派と、飽くまでも義信に従い、従来の親今川を推し進めようという彦八郎派に分裂した。この事件は、駿河今川家との取次を長く努めてきた穴山家にとっての重大事件でもあったのだ。信君は、武藤喜兵衛尉昌幸とともに飯冨兵部邸宅に踏み込み、その切腹を見届けた後、自領にて義信派の旗幟を鮮明にした弟彦八郎信嘉を久遠寺に押し籠めた。

 二年後の永禄九年(一五六七)末、彦八郎は久遠寺塔頭にて切腹して果てた。

 信玄派としてこの内訌を勝ち抜いた信君であったが、それは取りも直さず勝頼後継の路線に自ら協力したことに他ならなかった。

(四郎の膝下に屈することを承知の上で、彦八郎を死に追いやったのではなかったのか。それが嫌なら彦八郎と共に、御先代に楯突けば良かっただけの話ではないか。今更四郎の言うことに反発するなど、大人げない)

 信君は、最初のうちは、勝頼の通達に逐一苛立ちを覚えるたびに、そのように自分自身に言い聞かせて自分を納得させようとしていた。それが、死に臨んで特に自分の名を呼んで後事を託した信玄に対する忠節と考えられたからであった。

 しかし一方で、どうしても折り合いをつけることが出来ない想いもあった。

(高遠諏方家の後継者に過ぎなかった男に、何故従わねばならんのか)

 という想いである。

 武田宗家と穴山武田家の結びつきは累代に及んでいたし、信君個人に限ってみても、信玄の姉を母とし、信玄の次女を妻としていた。義信が存命であれば、武田家中における自分の立ち位置は明らかに勝頼より上だったはずだ。

(あのとき御先代に従ったのは仕方がなかったことだ。他にどうすれば良かったというのだ)

 信君は最近では、義信事件を思い返すたびにそのように考えるようになっていた。望まぬ結果になることは目に見えていたが、穴山家存続のためには他に選択肢はなかったのだ。

 この想いが、勝頼やその取り巻きに対する傲岸不遜な態度になって表れることは、やむを得ないことであった。

(本来お前は、俺に何ごとか命令を下すことが出来る立場に立つ人間ではなかったはずだ)

 信君は何ごとか勝頼から命令を受けるたびに、はらわたの煮えくりかえるような思いを抱いた。

 しかしだからといって、武田宗家に取って代わろうなどという野心を抱く信君でもない。大国武田の舵取りがどれだけの難事かということも、信君は知っていたからだ。

 信君は心の中で勝頼に対する罵声を発しながら、領内の軍役衆に参集を命じたのであった。

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