野辺送り(五)

 馬場美濃守信春は軍役衆の参集を待つため、深志城に入城していた。信春は深志城本丸の、他のそれよりはひときわ高い物見櫓にあって、軍役衆が参集する光景を眺めていた。信春の許にも、信玄の三回忌法要を執行する旨の勝頼書状が届けられていた。

 信虎治世より武田に仕えて四十余年、信春は実のところ、小身の侍でしかなかった自分が、なにゆえ信玄に見込まれ、城代という立場にあるのか未だに良く理解してはいなかった。

 他の諸衆は信春を

「一国の太守となっても人後に落ちぬ」

 と褒めそやしたが、そのような器量が自分に備わっていると思ったことは一度としてなかった。それは彼自身、謙遜でも何でもなく、常々他に語ってきたところであった。ただ信春は、戦陣に臨んでは常に小身の侍だったころと同じように、前線に出ることを厭わず、場中ばなかに身を投じることを心懸けてきただけの話であった。

 重用される理由が分からないというのは、信春の不安を誘った。何を理由に、いつ見限られるかもまた分からないということを意味しているからであった。試しに信春は、二度ほど信玄に対し、敢えて勘気を蒙るような所業をおこなったことがある。

 一度目は信玄が薙髪するより以前、晴信と名乗っていたころのことである。目通りを願った信春が、うやうやしく晴信に差し出したのは三宝であった。その三宝を見た晴信の眼が、みるみるうちにひん剥かれてていく様を思い出すと、信春はいまでも笑いを堪えることが出来なかった。三宝には、巨大な芋虫が乗せられていたのだ。信春は、晴信が芋虫を苦手にしていることを知悉していながら、かかる所業に及んだのである。

「芋虫如きに恐れをなす御大将が、天下を志すなど片腹痛し。どうぞ、手に取ってとっくり御覧じろ。恐ろしいことなんぞ一つもありません」

 信春は、日頃まつりごとや軍役、日常の作法に至るまで、五月蠅うるさく口を差し挟んでくる晴信に嫌気が差していた心持ちもあって、その困惑する姿がおかしくてたまらなかった。

 さすがにこのことを理由に腹を切らされるようなことにはならないだろうが、冷や飯を食わされることにはなるだろう。そう覚悟した上での所業であった。

 晴信はといえば、しばし逡巡していたものであるが、七歳も年長とはいえ家臣に軽んじられては示しがつかぬと意を決したように、その手にむんずと芋虫を握って見せた。

「おお!」

 信春は驚嘆した。

 芋虫を握って見せた晴信の胆力にではない。芋虫を握った晴信の手が、悪心おしんのために血の気を失い、握った芋虫と同じ色を呈したことに、驚きの声を上げたのであった。

 今ひとつは、永禄十一年(一五六八)、駿河攻めのときのことである。このとき信春は、信玄が麾下の軍役衆に与える褒賞として当て込んでいた今川家累代の家宝を、火中に投じるという暴挙を犯した。一度目と異なるのは、敢えて信玄の勘気を蒙ろうとしたものではない点であった。

 北条氏康と徳川家康から挟撃され、駿河支配の覚束なかった信玄にとって、軍役衆に与える褒賞としての今川家宝は重要な意味を持つものであったが、信春は、これを信玄が接収することは家宝欲しさの盗っ人の所業と同じと断じ、火中に投じて焼き捨てるの措置を採ったのである。

 すっかりあてが外れた信玄は、戦後怒気を含みながらその存念を信春に糺したのであるが、信春は

「今川の什物に手をつけたとあれば、御屋形様の雄図を知らぬ世上の雀は必ずや、甲斐の武田は今川の宝物欲しさに駿河に討ち入ったものよと噂するでしょう。違うなどと抗弁しても事実宝物を持ち去れば盗っ人と変わりがなく、世上の罵り嘲りを受けることは間違いございません。累年の武名も盗っ人の汚名にまみれることとなりましょう。御屋形様は御上洛の後、天下の政務を執らねばならぬ身なのです。盗っ人の号令になど、誰が耳を傾けましょうか。したがってこの馬場美濃守、御屋形様がかかる過失を犯す前に宝物を残らず焼き捨てた次第にございます」

 と、恐れることなくその存念を申し立てて自らの所業の正統性を訴えたのであった。

 二度とも信玄は、信春を罰したり、疎んじて遠ざけるということをしなかった。

 結局信玄は信春を重用した理由を語らぬままこの世を去ってしまった。

 信春はよわい六十を越えた我が身を省みた。櫓の廻縁に置く手に浮く血管、そしてシミ

「なかなか休ませては貰えないものだ」

 信春は、法要の後に控えているであろう戦役でも、これまでどおり場中に身を投じるような戦い方を、きっと勝頼から期待されているのだろう、そしてそれはこの齢に至った身には殊更つらいことだ、と思ったのであった。

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