下伊那崩壊

 先に信忠を岩村口から侵攻させ、自身は五畿内の衆の参集を安土にあって待つ信長。甲州征伐に先立って朝廷より治罰綸旨を賜り、武田家を朝敵として指定することに成功していた信長は、その先陣に錦旗を押し立てて沿道を進むつもりであった。

 錦旗は既に準備してある。

 上端に日輪があしらわれ、その下に大書されるのは右に「天照大神」と左に「八幡大菩薩」の縦二行。「八幡大菩薩」の頭文字たる八の字は、向かい合った白鳩の意匠をあしらい、これなど足利将軍家が治罰綸旨を得た際に押し立てた錦旗と同じ意匠であった。

 沿道に官軍の列を眺めるであろう凡下の人々は、信長の軍団が押し立てる錦旗の意味について知らず、また軍列を成す下々の諸兵もその意味する重要性を正しく理解するだろうとは思えない。そして何よりも、敵方である甲州勢の誰一人として未だ目にしていない錦旗が、実戦で如何ほどの威力も発揮することはないだろうと余人には思われたが、信長はこの錦旗によって甲州勢を屈服させようとしたものでもなかったし、凡下の人々にその意味するところを理解してもらおうなどと考えて錦旗を掲げるつもりもなかった。

 信長にとって、自らの奏請に応じて朝廷が武田家を朝敵に指定し、治罰の綸旨を下したという事実、その綸旨を得た自分が錦旗を押し立てて甲州征伐の沿道をったという事実こそが重要なのであった。信長は天皇の軍隊として武田家を討伐し、その手柄を以て征夷大将軍位に昇るつもりだったのである。

 その信長は、安土城の楼閣から眺める東の空が真っ赤に染まった理由を浅間山の噴火であると聞き、ほくそ笑んだ。

 真っ赤に焼けた空は、きっと帝都からも見えたことであろう。天下の人々は真っ赤に染まる東の空を見て、出陣に先立ち畿内諸寺に武田家調伏を祈禱させた結果だと解釈したに違いない。

「甲州征伐は神慮にかなうものだ」

 貴賤を問わぬ、人々のそういった噂こそ、信長が最も欲するものであった。

 征夷大将軍職は足利家の家職であるという常識に凝り固まった人々に、錦旗を押し立てながら東征する自身の姿を見せつけ、関東最強の大名武田家を滅ぼしたという事実を示すことによって、征夷大将軍の職を足利義昭から奪ってしまおうというのが信長の目論見であった。

 鳥居峠を守り切った木曾義昌は木曾谷を確保し、これに横入よこいれすべき深志城は行動不能の状態であった。また迫り来る信忠に対していち早く忠節を誓い、武田を裏切った小笠原掃部大夫信嶺は自ら先陣を買って出て、下伊那に残る拠点のひとつ飯田城に接近していた。勝頼は飯田城の防備を固めるために保科甚五郎正直、小幡因幡守等五百の人数を派遣したが、俄に城に入ってきては武田家の威を借りて猛々しく振る舞う援軍と、飯田在番衆との間は一致団結と呼ぶにはほど遠い状況であった。飯田城は坂西氏等の在地の侍衆を飯田城三の丸へと追いやった。地侍を二の丸より上に上げないというのは当時の慣例であったが、必ずや武田の後詰が押し寄せて敵方から救ってくれるに違いないという見込みがある時節ならまだしも、昨年の高天神城陥落の折に勝頼が同城を後巻うしろまきすることなく見捨てた事実は分国の人々に広く知れ渡っており、また勝頼が類い稀なる武勇を誇ったとしても、迫り来る数十万の敵方に対して如何ほどのことやあらんと不安に思う在地の侍衆にとって、三の丸のような最前線に追いやられることは

「そこに留まって死ぬまで戦え」

 と命令されているようなもので、到底承服できる話ではなかった。なので人々は

「城外の様子を見てくる」

 或いは

「許しも得ず城外に出た者を斬る」

 等と取って付けたような理由を口にして勝手に城を抜け出し敵方に投降する者数多あまたに及ぶ有様であった。

 その飯田城の諸兵の目に、突如として火を噴いた浅間山の様子はどう見えたであろうか。到底人知の及ばぬ事態に直面して甚だしく動揺したであろうことは想像に難くない。加えて沿道の村々に火を放ちながら迫る信忠の大軍。或る飯田籠城兵は、背後に真っ赤に染まる北東の空、南に幾万とも知れぬ火縄の灯火が迫る様を見て腰を抜かし、具足や得物を打ち捨てて人目も気にせずその場から遁走した。すると三の丸に辛うじて踏み止まっていた籠城衆は俄に浮き足立ち、我先に雪崩を打って一人残らず逃亡してしまったのであった。如何に勝頼の意向を受けた保科甚五郎とて、かかる動きを押し止めることが出来るはずもない。飯田城に入った武田家援兵も、翌朝にはまったく姿を消していた。このために信忠の大軍は、一兵も損なうことなく飯田城を接収することができたのである。

 なおこれは余談であるが、飯田籠城衆が腰を抜かした幾万もの火縄の灯火は、実は放火された村々で焼け残った牛の糞だったということである。このような状況であったから、信長は確かに、甲州勢に殊更錦旗を誇示する必要などありはしなかった。ただ、焼けた牛の糞さえ見せておけば十分なのであった。

 下伊那における最後の防御拠点は大島城であった。大島城には日向玄徳斎虎頭とらあきが在城しており、勝頼はこれに加えて叔父逍遙軒信綱を派遣した。一門長老を置くことで、城兵が戦わず遁走するような事態を防ごうとしたのであろう。

 勝頼から大島入城を命じられた逍遙軒信綱は、烈しい怒りの中にいた。

(勝頼は、わしを一門の重鎮かなにかと勘違いしておるのではないか。甚だ迷惑だ)

 先に陳べたように、歴代に渡る内訌と、一門に戦死者を出すような激しい外征を繰り返してきた武田家中において、信虎三男にして信玄実弟逍遙軒信綱は一門重鎮と呼べる存在であった。しかし信綱自身はそのような立場にあっても、家中において権勢を振るおうとは決してしなかった。惣領の血筋を重視した身の振り方といえば聞こえは良いが、とどのつまり世上の煩い事を嫌って半ば隠遁を決め込んでいたのである。国政や家の面倒なことは勝頼や子の麟岳に任せて、好きな絵を描いて余生を過ごすつもりでいた信綱は、勝頼から大島入城を命じられて、表面上は快諾しておきながら、内心に烈しい怒りを感じたのであった。

 信綱が大島城に入ると、そこには籠城兵が数ヵ月は戦うことが出来るだろう十分な兵糧、鉄炮、弾薬、弓矢が備えられており、迫り来る敵方に対して普請に抜かりもない。信綱のような厭世的人物であっても戦乱の世に身を置く立場なればこそ、ひと目見て大島城の備えが十分であることは見て取れたのであった。

 信綱は気を取り直した。

 迫り来る敵方に対し、飯田城がまさか一戦も交えず自落するなど思いもよらなかった信綱である。敵方は数十万の兵力などと噂されてはいるが、兵力を過大に吹聴するなど古今問わずおこなわれてきたことで、到底信じるに足らない。事実であったとしても嶮岨な下伊那の道を進んでくることは困難であって、拠点に籠もって迎撃すれば追い落とすことも十分に可能だ。飯田城攻略戦で消耗した敵軍を、この大島城に蓄えられた十分な武器弾薬で迎え撃ち痛撃を加えれば、上原に在城している勝頼が分国の人々を糾合して城外において後詰の一戦を戦い、遂にはこれを追い落とすことも不可能ではない。信綱はがらにもなく気を取り直してそのように考えた。

 だが信綱がそのような考えを撤回するのにさほど時間はかからなかった。

 南から、続々と敗残兵が流れていく。

 大島城兵はこれら北へ北へと流れていく敗残兵の一人を捕まえて

「どこから来たか。今からどこへ行くのか」

 と問うと、彼等は

「飯田のお城が落ちたゆえ、国許へ帰るのだ」

 などとこたえるではないか。

 大島城兵は、飯田城は死闘の末陥落したものだと思い込んでいたので、敗残の飯田城兵に対して重ねて

「敵方の数は如何ほどで、物頭ものがしらは誰か」

 と問うた。

 すると飯田城兵は

「敵方の姿が見える前に、みなこぞって城を捨てたゆえ、敵の数もかしらの旗も目にしてはおらん」

 とこたえる。

 飯田城兵は、茫然自失立ち尽くす大島城兵を尻目に、北へと流れていった。

「飯田城が自落したようだ」

 この報せは、逍遙軒信綱のもとにもたらされた。

 大島城が幾許か持ち堪えるであろうという見立ては、飯田城兵が敵方に対して奮闘し、その鋭鋒を幾分か鈍らせていることが前提であった。飯田城攻略戦によって損耗した敵方に対し、勝頼が後詰の軍を率いて襲い掛かり、その勝頼に合流して敵方を大いに撃ち破る算段だった信綱は、上原へと派遣した後詰要請の使者がいつまで経っても帰ってこないことも相まって遂に大島城を捨てることを決意した。信綱は飯田城自落の報を得て即日、夜陰に紛れて城をあとにした。

 逃げ出したのは信綱だけではなかった。城兵の大半が逃げ出していることは、翌払暁には明らかとなった。

 日向玄徳斎は

「かくなる上は残った精鋭を以て玉砕覚悟の籠城戦を戦うのみ」

 と覚悟を定めたが、過半の人が消え去った城を幾許いくばくも支えることが出来るとは到底思われぬ。

 玄徳斎の子、二郎三郎は息巻く父を押し止め、

「勝頼公の危機はこれからです。我等このようなところで犬死にするわけには参りません。勝頼公の馬前でこそ華々しく散りましょう」

 と説得した。

 しかし日向父子が城を捨てて落ち延びた先は、勝頼が在陣している上原ではなく本貫地である巨摩こまであった。

 日向玄徳斎そして逍遙軒信綱と、指揮を執るべき大将を失った大島城は、ここでも全くといっていいほど信忠軍に打撃を与えることが出来ず、自落してしまったのであった。

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