西上作戦(五)

 勝頼は病臥する信玄の枕頭にありながらその恢復を待つしかない自らの不甲斐なさを噛みしめていた。出来れば病に臥せる父など、ここ刑部村おさかべむらにほったらかしにしたまま全軍を引率して作戦を継続したいほどであった。

 三方ヶ原合戦中、一刻あまり寒風に身を曝した信玄が、かねてからの病を悪化させて倒れたのである。進軍は思うに任せぬ情勢であった。

 三方ヶ原に大敗した家康はいまや後詰を得られるあてがなくなり、浜松城に逼塞するばかりである。

 またこの大勝は書状を以て各方面に喧伝されていた。京畿において信長に抵抗する勢力はもちろん、信長とさながら連合政権の体を成していた将軍義昭の許にもその報せはもたらされていた。それまで信長との連携を重視していた義昭であったが、このところその政権運営に掣肘せいちゅうを加えられる鬱憤も重なっていたし、なにより義昭には信長と共倒れするつもりなど微塵もなかった。武田の勢いに驚愕した義昭は、信長陣営から去り、二条城に籠城して反信長の旗幟を鮮明にしたのである。

 

 これまでは将軍義昭は、信長との関係が悪化してこれを討ち滅ぼそうと企て、主体的に信長包囲網を構築したものと理解されてきたが、近年進展著しい東国戦国史研究の成果によると、どうやら事実は少し異なるようだ。

 このころともなると、足利将軍家が有力大名の補佐を得ながら政務を執るという形態が定着していた。山城周辺にしか支配力が及ばなかった室町幕府の脆弱性を指摘する向きも多いが、ほんらい将軍とは、領土の経営などといった煩瑣な業務から解放され、権威により武家を統治する立場であるとこの時代では理解されていたようである。何を隠そう織田信長も、そのような政権を構想していた節がある。信長最晩年には総石高四百万石にも達した織田領であるが、北陸や中国、畿内等百万石を超える大領は柴田勝家や羽柴秀吉、明智光秀などに運営させ、信長自身は近江周辺のほか蔵入地合算しても四十万石ほどを直接支配した以外は直轄領を持たなかったという。室町幕府の政体以外に模倣するものがなかったからこういった政権運営を目指すこともやむを得まい。だから織田幕府というものがもし出来ていたら、案外こぢんまりとしたものになっていたはずで、早晩室町幕府化したことだろう。

 領国経営という甚だ面倒な業務から解放されるという利点がある一方、こういった政体を採用した場合問題になるのは、軍事力が脆弱である点であった。

 狭小な領土と少ない人口。幕府そのものが動員出来る兵力は限定的であった。

 折に触れ現れる叛逆者の追伐は有力大名の力を借りておこなわれるか、そういった有力大名に全面的に委任するかのどちらかということに自然となっていった。こういった対応が常態化するにしたがい、幕府はその権威が漸次低下していくという事態に見舞われることになる。我々は、嘉吉の変(嘉吉元年、一四四一)にその例を見ることが出来るだろう。

 将軍義教が殺害されたあと、赤松満祐討伐軍の主力となったのは山名持豊(後の宗全)であって、こういった大大名の力を借りなければ、このころの幕府は独自に叛乱軍を鎮圧出来なくなっていたのだ。明徳の乱(明徳二年、一三九一)に際して三代義満自ら燻革ふすべがわの腹巻を着し叛乱軍の鎮定に当たったのとは様相を大きく異にしている。

 殺された義教の後を継いだ千也茶丸(足利義勝)は九歳の幼年であった。その善し悪しは別として義教により「万人恐怖」とまで謳われた強権政治はまったく影を潜めてしまった。幕府の力が低下したことにより権威も失墜した最たる例であろう。

 

 義昭の立場からみれば信長と共倒れしなければならない義理などまったくなく、より有力な側を見極めてそれへと鞍替えすることは恥でも何でもなかった。むしろ武家の棟梁としては当然の見識である。

 そして義昭が反信長に転じたきっかけこそ、三方ヶ原戦役における武田家大勝の情報であり、織田家との共倒れを恐れた義昭が信玄に追い詰められる形で反信長陣営に転じ、結果として信長包囲網が形成されたのではないか、という受動説が近年有力である。

 鞍替えを繰り返して無定見そのもののようにも見える室町幕府の方針には、実は

「武家の棟梁がいくさに勝った者を顕彰するのは当然のことである」

 という、強きを扶け弱きを挫く理屈が一貫していた。いくさに負けたやつが全面的に悪いのである。ただそれだけの話であった。

 斯くして義昭は反信長に転じた。

 確かにこのときの武田家は、信長による京畿支配を一挙に打破して上洛に至ることの出来る千載一遇の好機にあった。

 そんな重大な時節に際会して、ただ眠るばかりの信玄。頬は痩け眼窩は落ち窪んでいる。残された命数もそう多くないだろう。

 こんな重病人などほったらかしにしておけば良い、軍を西へと進めるのだ、者共我に続け。

 勝頼がそのように采配したとして、いったい何人が付いてくるというのだろう。もとより天下の掌握など考えたこともない勝頼であったが、天下云々以前に、信長追伐の好機と、それにありとあらゆる矛盾を包含したまま京のみやこに逃げ込む好機を逸しつつありながら、何ら打つ手のない自身を顧みて、不甲斐なさを噛みしめていたのであった。

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