家康反攻(二)

「また牛久保か」

 奥平家から派遣されてきた使僧倚学の口上を聞いた長坂釣閑斎光堅は、あからさまな呆れ顔を示しながらそのように呟いた。だがそれも無理からぬ話である。

 そもそも牛久保領有を巡る問題は山家三方衆が今川家に服属していた時分から問題になっていたのだ。武田家とてそれと知りながら、西上作戦の過程で味方を少しでも多く募るつもりで山家三方衆に調略の手を伸ばしたのである。山家三方衆のすべてを味方に付けるということは、その衆中にくすぶる憎悪、いつ炸裂してもおかしくない時限爆弾をも懐に抱え込むことを意味していた。これもまた亡き信玄が家中に残した難問のうちの一つだったといえよう。

 もし根本的な解決を目指すのであれば、どちらか一方に全面的に肩入れし、対立する一方を武力によって打ち払うしかない。だが武田家は談合による解決を山家三方衆に求める立場を堅持していた。既に二度三度、同じことを通知している。釣閑斎が呆れるのも無理のない話であったが、それでも釣閑斎は一応倚学を山県昌景に引見させ、その存念を陳べさせた。無下にあしらったわけではなく、家中における最高責任者たる山県昌景と引見させたという事実を作っておいて、それにより奥平家中を納得させるための措置であった。

 だが当時、駿河出陣を控えて身辺が慌ただしかった昌景の対応は到底懇切とはいいがたいものであり、倚学に刻みつけられた印象は、昌景と会談できた、という好ましいものにはほど遠く、寧ろ家中の最高責任者から邪険に扱われたというものであった。

 長坂は倚学に定能宛の書状を持たせて帰国させた。手紙にはこれまでどおりの武田家の立場が改めて記されているだけであった。

 定能は震える手で、その手紙を信昌に示した。それと同時に

「於ふうと仙千代は諦めてもらわねばならん」

 と言った。

 信昌は固く口を結んで頷いた。

 

 先に、山県昌景が駿河出陣を控えていた、と記した。これは信長から信玄死去の風聞を聞いた家康が、当の信長に促されて武田家の出方を探るべく遠州、駿河方面に攻撃を加えてきたことに対応するためであった。

 家康の反攻を受けて勝頼の憤怒はひととおりではなかった。

 武田首脳部が秘匿に努めたにもかかわらず、信玄死去の風聞が全国に広まっていることを知らない勝頼ではなかった。それほどまでに元亀四年(一五七三)三月から四月にかけての武田家の動静は不自然だったのである。

 家康も信玄に関わる何かしらの情報を得ているはずであった。何らかの事情で、信玄が身動きの取れない状態に陥っていると知って、家康は武田領国にちょっかいをかけてきたのである。このことは後継者勝頼の誇りに傷を付けた。

「信玄ならばいざ知らず、勝頼風情にろくな対応は出来まい」

 と虚仮にされているように、勝頼には思われた。家康のそのような動きなど無視して、信玄遺言を遵守し国力回復に努めるべきであった、とする向きも多かろうが、敵方による刈田狼藉などを追い払いもせず見過ごせば、実際問題として大名の求心力はいくらかでも低下するものであり、これに対処することは当然のことであった。なので三年間の外征停止が緒に就いたばかりのこの時節、勝頼が家康を追い払うために出陣を口にした行為を、その生来の短慮にあるなどと評することは誤りである。

 ただ先代の遺言は最大限尊重されるべきものであるというのもまた事実であり、自らの出陣にも言及した勝頼を、宿老共は留め立てした。

「御先代の御遺言を守りつつ敵方を追い払うためには、分国の諸兵を動員せず、甲斐衆のみでもって軍を編成し、御屋形様の御出馬も願わず、我等宿老のみによって怨敵を討ち果たしましょう」

 と献言したのが他ならぬ山県三郎兵衛尉昌景なのであった。

 なにも昌景とて、信玄遺言が無条件に正しいと思って勝頼の出馬を押し止めたものではない。国内には内藤修理亮昌秀のように先代信玄を絶対視し、その遺言を墨守することに拘泥する一派があることは事実であった。そういった勢力が勝頼自身による出馬を信玄遺言の不履行だと難詰することを昌景は恐れたのである。かかる事情によって、当主勝頼を欠いた武田勢が急遽編成されだわけである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る