鳥居峠の戦い(五)
勝頼は木曾義昌討伐を諸将に宣言し散会を命じると、林の住まう奥の間へと足を運び、愁えた表情を湛える正室に対して
「なにもそのように憂慮する必要はない」
と優しく告げた。
その勝頼の声の調子は、つい先日、新府城の本丸から諏方方面を臨む眺望を共に目にしたときと同じく、慈愛に満ちたものであった。
(この強くて優しい人は、殊更自分を心配させまいと気丈に振る舞っているのだ)
そのように思うと、林は勝頼の自分に対する配慮を愛おしく感じ、戦地へ向かおうという良人の身を案じて、胸の内奥から溢れ出てきたかのような涙を止めることが出来なかった。
林は勝頼の胸に飛び込み、その分厚い胸板にすがりついた。勝頼は花の蕾のようで、未だに春を迎えていないような、華奢な姫の肩を両手でそっと抱き、
「すぐに帰る。そのように泣かれては余もつらい」
と言った。
林は勝頼の胸元を離れがたいと思って、しゃくり上げながら、良人を戦地に赴かせまいと必死に勝頼にすがりつき、
「どうか行かないで下さいまし。国家など捨てて、私と共に逃げましょう。なにゆえ御屋形様だけが、かように苦しい思いをしなければならないのです」
と涙に声を震わせた。
この林の取り乱した姿は、勝頼が武将としての自らの運命を悟って、弱さと決別するより以前の自分を呼び起こすもののように思われた。なので勝頼は離れようとしない林を力尽くで押し離した。そうすることによってでしか、林は自分の胸元から離れない思ったからであった。
押し離された林は、腰が砕けたようにどうっと倒れ込んだ。侍女達がその身を気遣って林に駆け寄る。
しかし林は侍女等の差し伸べる手を振り払い、なおも
「行かないで、行かないで下さいまし」
と勝頼に懇願する。
木曾討伐の決意が揺らぐことを恐れる勝頼は、その言葉を背中に聞きながら奥の間をあとにしたのであった。
奥の間を出た勝頼は、次に二の丸に住まう太郎信勝に遣いをやって本丸へと呼び寄せた。
そして太郎信勝に対し
「遂にそなたの初陣のときが到来した」
と告げると、信勝は
「それがしが、初陣」
と呟いたあとしばし絶句した。
次に口を開いた信勝は、
「して、相手は」
と勝頼に問うと、勝頼は何ら隠し立てすることもなく
「木曾義昌である」
と告げた。
「
信勝の言葉に思わず瞠目する勝頼。
武田の将来を諮問してもどこかぼんやりして言を左右にしていた太郎信勝が、その両眼に爛々たる怒りの炎を燃やしている姿を、勝頼は初めて目にした。そしてそのような嫡子の姿を見ると、勝頼は
(木曾の討伐が成ったあかつきには、家督を譲渡することもやぶさかではない)
との所感を抱いたのであった。
かくして武田勝頼は、嫡男太郎信勝を筆頭に分国の諸侍を引率して新府城を発したのであった。
行軍中、諏方往還には雪が降り積もり、勝頼信勝父子が意気軒昂であることに反比例して、軍役諸衆は
「諏方往還にあってもこの残雪。それより先鳥居峠の険に至っては、どれほどの雪か想像もつかん」
と恐れを抱く者数多に及ぶ。
勝頼はそのことも知らず、
山村等は
「このたび武田の御家に対して当家の謀叛を注進した千村右京進は、先日酒に強か酔って我が主に組み付こうとした失態があって、その咎を免れるべく謀叛を讒訴したものです。我等、御屋形様より詰問の御使者を得られるものと考え、その折には、時節さえ到来すれば年来の御恩に報ずることを言上し、謀叛の心根など微塵もないことを申し上げようと決意しておりましたところ、案に相違して軍勢を差し向けられる御無体。ここは兵を退かれ、心静かに我等の陳弁に耳を傾けられることこそ、世のため人のための仁政というものでございましょう」
と申し述べたが、これなど信長の後詰を得るまでの義昌の時間稼ぎ、方便に過ぎないものであった。
そのことに考えが及ばぬ武田の人々ではない。木曾討伐に従軍する相模守信豊や、小山田左兵衛尉信茂などは
「木曾の口車に乗ってはなりません。ここは一挙に押し寄せて、有無を言わさず揉み潰すべきでしょう」
と積極論を唱える。
これはまさしく正論で、織田家後巻を待つまでの間、孤立無援の木曾を一両日中に撃砕出来れば、後詰の目的を失った信忠の軍勢は岐阜へと引き返す公算が高かった。そうなれば木曾義昌謀叛を契機とする連鎖的な領国崩壊を免れ、武田が蘇生する機会も生まれようというものであったが、もはや勝頼の命運ここに
その胸の裡には今更ながら
「このような時節であればこそ、武田家として木曾に恩情を示し、武田の私財を擲って厚遇するの意を明確にすべきです」
という早野内匠助の言葉が去来していたのであった。
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