鳥居峠の戦い(四)

「左様か・・・・・・」

 勝頼は土屋右衛門尉の取次を経て木曾義昌謀叛を知り、しばし瞑目しながらそのように呟いた。

 木曾が美濃と国境を接している以上、このような事態を予測していなかった勝頼ではない。寧ろ岩村城陥落以来その謀叛を疑い、ことあるごとに木曾の動静を注視してきた勝頼である。義昌が信長の朱印状を得た一両日の間に義昌謀叛を知ったということは、勝頼の木曾対策が奏功したということに他ならなかった。察知が早かったのは不幸中の幸いである。勝頼は早速諸将を新府城大広間に召し寄せて対応を協議した。

 木曾義昌謀叛とも知らぬ諸将が集う中、勝頼が

「木曾の謀叛が現実のものとなった」

 と宣言すると、人々は俄に色めき立って或いは怒号を発し或いは床板を拳で叩きながら

「永年の重恩を忘れた恥知らずめ!」

 であるとか、

「かくなるうえは分国の精鋭を派遣して一挙に揉み潰すべし」

 などとする積極論が大勢を占めた。

 そのような中にあって敢然と消極論を唱える者がある。りんに扈従して小田原から甲斐へと下向してきた侍従四名のうちのひとり、早野内匠助であった。早野はいわば小田原の客将である身も顧みず、軍議の場で

「ここは恩情を重ねて木曾の帰服を得るべきでしょう」

 と唱えた。

 勝頼はすかさず

「その存念、那辺にありや」

 と下問すると、早野は言った。

「このような時節であればこそ、武田家として木曾に恩情を示し、武田の私財を擲って厚遇するの意を明確にすべきです」

 しかしこの案には諸方から反対意見が飛び交った。

「一度謀叛を宣言した者を恩情によって遇すれば、帰服を得るより前に諸方で謀叛が頻発することは疑いがない」

「左様。裏切り者は有無を言わさず葬り去らねば他に示しが付かん」

 しまいには

「早野殿は小田原の客将ゆえ、黙っておいてもらおう」

 などと口にする何者かがあったので、さすが早野内匠助もこれには噛みついて

「小田原の客将とする声が上がったが、なにもそれがし伊達や酔狂で赦免を意見したものではない。甲相手切てぎれに及び三箇年、妻子を捨てて甲斐に下向してきた我等、姫君が勝頼公に添い遂げることを決意なされた上は、姫君の御諚に従い勝頼公こそ我が主と思い定め、公の盛んなることを以て姫君の幸せと思えばこそ斯く言上したまでのこと。その存念も知らず軽々に小田原の客将は黙れなどと口になさるものではございませんぞ」

 と言うと、やかましく早野の意見を咎めた武田の重臣等もさすがに口を閉ざした。

 勝頼は一同が静まった頃合を見計らって

「皆の存念はようく分かった。早野殿は、我が手の者が無礼な言を発したことを赦していただきたい」

 と、早野内匠助への気遣いを見せたあと、

「この軍議を経て余は木曾義昌討伐の決意を新たにした」

 と宣言し、更に

「その故は、甲信の人々は山河によって居住する地域が明確に区分されておる。そのために人々は腹背常なく、父信玄はその統制に腐心し続けた。このような土地柄である以上、かかる謀叛を放置すれば分国の国衆が木曾義昌同様謀叛を企てることは疑いない。もとより義昌も討伐の憂き目を見る覚悟なくして謀叛を企てたものではあるまい。余は武田家の当主として、御旗楯無に誓い、敢然佞臣の挑戦を受ける所存である」

 と言い切った。

 勝頼がこのように宣言した以上、群臣がその方針に反対することは出来なかった。

 勝頼は早速木曾攻めの陣布礼を発して、分国中の諸侍一万五千を召集し、自らも具足に身を固めて木曾討伐の軍を起こしたのであった。その際勝頼は、嫡男太郎信勝に同道を命じた。信勝にとってはこれが初陣であった。勝頼は累代武田の当主が初陣に際して身を包んだ具足を着する太郎信勝の姿を感慨深げに眺めながら、死んだ勝のことを思い出していた。

 幼少の信勝の行く末をひたすら案じながら逝った勝。勝頼には、その姿が死病の床に臥せる母、於福と被って仕方がなかった。

 つい先日まで勝頼は、太郎信勝を甲濃和親の切り札と認識していた。信勝への代替わりを契機にして織田家が甲濃和親に応じるというのであれば、勝頼は信長の求め次第では自分の頸を差し出すことも厭わない所存であった。しかし信長が木曾義昌の本貫地安堵に加えて信州二郡の加増を約束し、その帰属を得た以上、代替わりしたとて今更信長が武田家を赦免することなど有り得ない話だということに、勝頼は思い至ったのである。そして勝頼は、間もなく押し寄せてくるであろう織田の軍勢に飛び込んで、信長或いは信忠の首級を挙げることを決意した。それは、類稀な武勇を示すことで分国の崩壊を繕ってきた勝頼が、当然考える対処法なのであった。

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