直訴(一)
「寒い正月だ」
草間官兵衛は秋口にしつらえ直した綿入りの小袖を一人で二枚も羽織り、火鉢で手をあぶりながらそんなことを呟いた。火鉢の中には小ぶりの炭が二片ばかり。
「公事が滞っております」
父の言葉を聞いて、三右衛門尉が言った。
昨年十月、決破が二度にわたっておこなわれたが、公事担当の奉行衆か決裁を回避した経緯は前に陳べたとおりである。村人達から集めた甲府滞在費が払底し、空しく帰村した経緯があった。
三右衛門尉はそのような経緯を踏まえ、父から
「早う公事をすすめよ」
と言外に言われているように思って、
「公事が進みません」
とこたえたものであったが、草間官兵衛は
「そのようなことは気にしてはおらん。寒かったからそう言っただけだ」
と、公事の今後についてはさほど気にも留めていない様子であった。
三右衛門尉は火鉢の中の頼りない二片の炭をぼんやりと見つめながら
(次こそ決裁いただかなくてはならん)
と考えていた。
どれほど考え込んでいたものかしれない。ふと気が付いて顔を上げると、三右衛門尉の対面に座っていた官兵衛が苦しそうに腹を押さえていた。長篠でもらった鉄炮疵が痛み出したものだろうか。
「父上、大丈夫ですか」
官兵衛は慌てて夜具を持ち込んだ。官兵衛をその場で横たえさせるためであった。
(或いは永くないかもしれん)
三右衛門尉は最近急激に痩せた官兵衛の顔を見ると、早く公事に決着をつけて父を安心させてやらなければならない、と思った。
過去二度にわたる甲府行きを経てなお、望む結果を得ることが出来ず、依然として小池郷の人々は内田山に入ることが出来ないでいた。本来であれば夏の間に取った木々を秋口までに乾燥させて薪や炭をこしらえなければならなかったが、昨年の七月以来山に入ることが出来ず、どの家も燃料が逼迫している状況であった。このため小池郷では、冬に入ってから体力のない老人が凍死するという事態に見舞われ、既にその数十指に達するほどであった。このようであるから、村人達は、三度目の甲府行きのために滞在費を集めに来た三右衛門尉や次郎右衛門、次郎兵衛に対して渋る様子もあからさまに
「次こそ大丈夫でしょうな」
と殊更念を押す有様であった。
(いつまで経っても結論の出ない公事などに銭を出したくない)
というのが村人達の偽らざる心境だったのである。
三右衛門尉等公事によって解決を図ろうという者は村内で浮いた存在になりつつあった。
しかしだからといって他に解決策はないのだ。
強引に山に乗り入れて内田衆と喧嘩にでも発展すれば、成敗の憂き目を見かねなかった。三右衛門尉はともすれば弱音を吐きがちな次郎右衛門や次郎兵衛を励まして、ようやくにして甲府滞在費を集めることが出来た。
新年も明けた天正七年(一五七九)正月四日、三右衛門尉一行は三度目の甲府行きに発った。前回そして前々回と比較すると、見送りの人数は遙かに少ないものとなっていた。
(腐ってはならん)
三右衛門尉は見送りの人数を黙算しながら、そのように思ったのであった。
もはや甲府までの道のりは、三右衛門尉等にとって歩き慣れた道となっていた。
塩尻に至り、小野神社付近に差し掛かったとき、次郎兵衛は
「公事勝利を祈願いたしましょう」
と口にしたものであるが、三右衛門尉は
「前回祈願しておる。先を急ぐ」
とつっけんどんに言ってこれを容れなかった。
一行は更に峠に差し掛かった。峠から見下ろす諏方の湖は凍てついて、その水面に雪が積もっている。分厚い雲の隙間から陽光が差し込み湖面を照らした。それは秋口の峠越えの際に見た、金色に輝く湖面とはまた違った性質の美しさを以て輝いたが、三右衛門尉はその湖面の白い輝きを強いて美しいとは思わなかった。
小野神社に公事勝利を祈願しなかったことも、輝く諏方の湖面を強いて美しいと思わなかったことも、三右衛門尉が
(公事勝利は自らの努力に拠るほかない)
と考えたためであった。
勝利は自らの努力に拠るほかなく、神仏はそのようにして得た勝利に対して祝福してくれるものだと三右衛門尉は考えたのであった。小池郷を発して二日後、一行は甲府は躑躅ヶ崎館に達した。
そして例によって門番の在番衆に対して目安を提出し
「既に三度目の公事となります。決裁頂きたくまかり越しました」
と告げると、門番は大手の脇の木口から目安を差し入れて
「公事の目安だ。届けてくれ」
と内の在番衆に告げた。
三右衛門尉が差し出した目安は加賀美の大坊が代筆してくれたものであった。
文面のうち
「内田郷士当月以点札禁入会候」
とあったところを
「内田郷士昨年七月以点札禁入会候」
と書き直した以外は日付を改めたくらいのものであった。
一刻(約二時間)ほど待たされた一行は、
そのうちの一人が一行の許にやってきて言った。
「逐って沙汰するゆえ、宿所を届け出て一旦下がられよ」
前回はこの言葉を受けて、二十日も無為に過ごした一行である。またぞろひと月近くも待たされるのかとげんなりしていたところ、案に相違して五日後の正月十日、府第からの使者を得た。
使者は
「明日決破に及ぶ故、辰の刻の始まりには遅滞なく府第に越すこと」
と告げて立ち去った。
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