義信廃嫡(二)

 話は少し遡る。永禄八年(一五六五)五月のことである。中央政界に激震が走った。将軍足利義輝が三好義継と、更に三好長逸ながやすを筆頭とする三好三人衆、松永久通に殺害されるという事件が発生した。

 世に永禄の政変と称される事件である。

 政変の背景については様々語られているが、足利将軍家から見れば陪臣に過ぎなかった三好氏が次第に力を付けはじめ、主家たる細川京兆家を凌ぎ、永禄元年(一五五八)に将軍家と正式に主従関係を取り結んだころから既に波乱含みだったようだ。

 幕府側の行動原理は相変わらずであった。こういった京畿諸勢力の間隙を遊弋ゆうよくしながら折に触れ権威の拡大を狙う悪癖をこの時も幕府は遺憾なく発揮した。義輝は六角承禎や畠山家を利用して三好家を駆逐しようと暗躍した。主従関係を締結したにもかかわらず、その三好の討伐を目論むあたり、応仁・文明の乱を拡大させた幕府の無定見は相変わらずだったといえよう。

 三好側は足利家と正式に主従関係を取り結んだにもかかわらず、主家が独自の動きを展開して三好家による京畿支配を不安定化させる行為に苛立ちを覚えた。あまつさえ義輝は、身辺の守りを堅固にするため御所の普請を繰り返したという。これなど宣戦布告に等しい挑発行為だ。

 義輝は自らのこういった所業が事態を激発させることについて、どうやら自覚があったらしい。政変の前日には三好による御所巻(将軍御座所を軍兵で取り巻いて抗議の意を表す行為)を恐れて都落ちを画策したが、既に三好一党と戦う覚悟を定めていた幕府奉公衆は

「都落ちなどみっともない。我等討死うちじに覚悟で死闘致しますゆえ、御座所にあらせられよ」

 と、口々に義輝を押し止めた。

 果たして翌朝、万にも及ぶ軍勢が御所へと押し寄せた。

 江戸期に成立した日本外史によれば、このとき義輝は、累代の名刀を自分の周囲に出丸状に突き立て防壁となし、群がる敵を斬り殺して切れ味が鈍れば新たに刀を引っ替えて奮戦したという。剣豪塚原卜伝の直弟子たる義輝の最期を潤色した記述ではあるが、信長公記やフロイスの日本史にも、

「将軍自ら斬って出て敵に損害を与えた」

 であるとか、

「将軍は薙刀を用いて戦い人々はその技量に驚嘆した」

 といった記述があることから、将軍義輝が最期にあたり武士らしく戦って散ったことはどうやら間違いなさそうである。

 ともあれ生前採用してきた政策とは裏腹に、義輝の死は幕府の権威をとことんまで失墜させた。三好三人衆は自らの息のかかった義輝従弟足利義栄擁立を目論見、他に後継将軍となる目のあったの義輝弟にして鹿苑院院主周暠しゅうこうを殺害、さらにもう一人の弟で大和興福寺一乗院門跡覚慶かくけいを同寺に幽閉した。彼こそ後に足利幕府最後の将軍となる足利義昭(当初は義秋と称した)その人である。

 覚慶は松永久秀の監視の目を盗み、幕閣一色藤長と細川藤孝の手引きで興福寺を脱出、還俗して足利義秋の名乗りを挙げ、足利家当主就任を宣言した。義秋は近江国野洲郡矢島村に至り、ここを将軍御座所と定めて各勢力に御内書を発給して廻っている。この御内書は甲斐武田家にも届けられ、義秋は甲相越三和と上洛を打診したという。

 三好家は独自に将軍を擁立したが、これなど義秋を奉じ圧倒的軍事力で押し進めば容易に撃砕可能な代物であることは誰の目にも明らかなほど脆弱な政権であった。そして天下の衆目は、義秋が頼るのは越前朝倉義景或いは岐阜を拠点に定めたばかりの織田信長という点で一致していた。いずれも三管領の一、斯波家の旧臣であって足利家から見れば陪臣に過ぎぬという点においては、三好風情と同じ穴のむじなであった。

 義秋より上洛要請の御内書を得た信玄であったが、信越国境にて上杉輝虎と睨み合いの続く政情下、これを差し置いて西上の軍を起こすというわけにもいかず、代わって新たな同盟者である織田信長に義秋を奉じての上洛を託すより他になかった。そして、このまま事態の推移を黙って見守ってさえおれば、信玄は信長の協力者、足利義昭政権樹立の立役者として歴史の一端に名を遺すはずであった。戦国時代の終わりも、小田原戦役(天正十八年、一五九〇)をその終点とするならば、十年は早まっていたはずである。

 しかし武田信玄という男は、他者の栄達を諸手を挙げて祝福できるようなお人好しでは断じてなかった。そのことが、広くは戦乱により諸人を苦しめ、狭くは勝頼個人を地獄に叩き落とすことなど、神ならぬ身に知る由もない信玄なのであった。

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