岩村城の戦い(一)

 さて、一時は勝頼は酷い混乱のなかで戦死したのではないかと疑った信長も、勝頼が必死になって国内の手当に奔走していることを知ってその生存を確認した。

 戦後、信長は諸方に手紙を書き送って、本戦における戦勝を喧伝しまわっている。これまで通交のなかった北関東、東北の諸大名にまで、長篠戦役における戦勝を書き綴って送りつけた意図は、越後の上杉と並んで、当時から既に日本随一の精強を知られていた武田軍団を圧倒した武威を知らしめ、来るべき関東攻略に協力させるためであったことは論を俟たない。

 信長はこの当時、同盟関係にあった上杉謙信に対しても長篠戦勝を綴った手紙を送っており、

「このまま四郎を討伐するので信濃に出兵して欲しい」

 と、取次とりつぎたる村上国清経由で依頼しているが、謙信は動かなかった。それもそのはずで、謙信にとっては織田と武田が、東海或いは信濃美濃国境付近で睨み合っている現状こそ、国防上好ましい政情だったからだ。天文年間から続く甲越の確執を知る信長は越軍の南下を期待したが、越後の天才には人に利用される気などさらさらなく、信長の要請を黙殺している。

 よく、長篠戦勝の勢いもそのままに、信濃乱入を勧める諸将を信長と家康は押し止めたなどという逸話を耳にする。敗れたりとはいえ勝頼の武力を侮っていなかったからだといわれるが、一旦は信濃出兵を受諾した謙信がその意向を覆して兵を動かさないことについて、信長が口を極めて詰っている天正三年(一五七五)七月二十日付信長発村上国清宛書状が現存していることからも、信長はあわよくば信濃に乱入して、一気に武田を押し潰してしまうつもりだったことは間違いがない。侮る侮らないではなく、好機とみれば一気に討ち滅ぼそうと企む戦国特有の厳しさが垣間見える書面ではある。

 だが同じころ、勝頼は武田家年来の怨敵である上杉謙信に対し和睦の使者を派遣して、旧来の外交関係の見直しによる事態打開を模索していた。いうまでもなく長篠敗戦による不利を挽回するためであった。

 信玄が臨終の枕頭で

「余は意地を張って遂に謙信と和睦することがなかったが、そなたは謙信を頼るがよい」

 と言い遺したことを勝頼は忘れてはいなかった。信玄は同じ遺言の中で、謙信について

「守り袋に入れて、子等に持ち歩かせたい」

 とまで述べていた。

 無論上杉謙信とて戦国乱世の人であって、単に義侠心ひとつで国の政策を決定できるような気楽な立場にない。確かにいまこの時節に信長の甘言に乗って信濃へと出兵すれば、その奪還は赤子の手を捻るより容易いであろう。武田の劫掠から越後へ逃れてきた人々に対する義理を果たす好機でもあった。だがそのような目先の利益に捕らわれて、唯々諾々信長の言うとおり信濃を奪回したならば、その高い代償を支払わされるのは他ならぬ上杉家になるであろうことに気付かぬ謙信ではなかった。信長が不実だ何だと詰ってきても、謙信は軍を動かさず馬耳東風聞き流せばよいだけの話であった。

 信長が看破したとおり、この時期の信濃は長篠敗戦を受けて甚だしく動揺していた。そのことは、下伊那の国衆坂西氏が謀叛を企てたことでも窺い知ることが出来る。もし謙信が信長の要請に従って信濃に出兵していたならば、この時点で武田が滅亡していたであろうことは疑いがない。

 しかし勝頼は累年の怨敵上杉と和睦することで、なんとか危機を切り抜けようと躍起になっていた。

 しかし長篠敗戦の衝撃はなんといっても大きく、それまで武田の勢力を扶植していた奥三河からほとんど全面的に撤退を余儀なくされた影響は、東濃岩村城にまで及ぶこととなる。

 ここで岩村城について概観しておきたい。城の成立は、東濃に勢力を張っていた鎌倉幕府御家人加藤景廉の子、太郎景朝が、岩村に居を移したころをその嚆矢とするようである。承久年間(一二一九~一二二一)のころか。この景朝の代より遠山を名乗るようになり、岩村遠山氏としてこの地を支配し続けた。下って当代に至り、美濃に齋藤氏、伊那に武田信玄(当時は晴信)が進出すると、遠山氏はこれら大勢力に両属して独自の領域支配を維持している。

 戦国乱世にあって、境目の国衆の帰属を巡る問題は、大大名同士の全面戦争に発展する恐れを内包する事態であった。いくさを仕掛けたい隣国があった場合、こういった境目の国衆を味方に引き込み、敵勢力圏の最前に橋頭堡を確保し、緊張状態を意図的に創り出したうえで武力衝突に持っていく、という手段が頻繁に用いられている。また一旦はこちらに靡いた国衆が他家に転じるという事態は、大名の求心力を低下させる事態であり到底看過できないものであった。放置すれば家中におけるそのような動きを押し止めることが出来なくなるからだ。

 勝頼が先の長篠戦役において、長篠城を包囲した理由を思い出して欲しい。吉田城攻めを敢行するにあたり、甲軍の退路上に位置する長篠城を落としておかなければならなかったというだけでなく、長篠城に籠もる奥平九八郎貞昌が、曾て武田家を裏切った境目の国衆だったというのも長篠城攻めの目的のひとつであった。

 このように、境目の国衆の動向は時としていくさの火種になるものであり、戦争を仕掛けられたくない側は、事態を何とか制御下に置こうと腐心することになるわけである。

 それでは隣り合う大勢力の双方が武力衝突を望まない場合はどうか。弘治年間(一五五五~一五五八)における武田氏と美濃齋藤氏がちょうどこの関係であった。武田晴信は越後の長尾景虎との抗争がいよいよ本格化してくる時期に当たっており、美濃方面に勢力を扶植する余裕も必要性もないころ、美濃齋藤氏にとっても主戦場は濃尾国境で、その主敵は織田信長というころであった。勢力を接する東濃での新たな武力衝突の発生を、美濃齋藤氏も武田氏も望んでいなかった。

 ここからはたとえ話である。

 東美濃を支配する遠山家が中立を捨てて、齋藤義龍への一方的な帰属を表明したとしよう。武田晴信とすればこの方面における齋藤氏との抗争を望んでいなくても、有力大名の前線基地が突如国境に出現したわけだから、国防上やむを得ず対処しなければならなくなる。派兵とまではいかなくても、境目の城の防備を固めることにはなるだろう。

 ただ、城の防備を固める行為も敵対行為と見做される時代であったから、これをきっかけに双方が城を拡張しはじめることになるだろう。国境の緊張が一気に高まるわけである。

 城の維持管理には多大な物資と労働力を必要としたから、抗争を望まぬ立場としては耐え難い負担と見做され、兵を出して一挙に片を付けるか、話し合いによる緊張緩和のいずれかを選択することになるはずである。無論双方ともいくさを望まぬ立場というのが大前提であるから、武力による解決を図るようでは本末転倒なのであって、自然話し合いによる解決を模索するに違いない。その結果選択されるのが、遠山家が美濃齋藤氏と武田氏双方に両属する、という中世武家社会特有の外交関係なのである。

 事実、遠山家は甲尾同盟が機能していたころも、両家に両属する立場を採っており、信玄信長双方がこれを認めていた。

 事態が急変するのは、元亀三年(一五七二)八月である。両属の外交関係に基づき、武田信玄の命令に従って飛騨に出陣した岩村遠山家惣領遠山直廉が傷を負って後に死亡、折悪しく後継の景任かげとうも病死したことにより、岩村遠山家の血統が断絶することとなった。信長は岩村城接収を目論見、河尻秀隆等の有力武将と五男御坊丸を岩村城に送り込んだうえで、景任未亡人にして自らの叔母おつやの方をその後見人に据え、岩村城を支配下に置いた。

 これでは信玄が怒るのも無理はない。信長が、信濃美濃国境に前線基地を置いたのと同義だったからだ。

 信長は後に、甲尾同盟の破綻は信玄が信義にもとるおこないをしたからだと口を極めて罵っているが、岩村城接収の経過を見れば、信長の側でも着々と甲尾同盟破棄後を見極めて行動していたことが窺い知れる。

 信玄は間もなく西上の軍を起こし、穐山伯耆守虎繁を東濃に派遣して、包囲攻城の末岩村城は陥落、以後信玄が死没するまで、虎繁は同城の女城主おつやの方を娶ったり、岐阜城下に乱入して放火狼藉を働くなど、信長を畿内から引き剥がそうと傍若無人の振る舞いをおこなっている。

 勝頼が後継としてってからもこの方面における緊張は持続したままであった。信長は長篠戦勝を機に、岩村城奪還を企図した。ここに、東濃の軍事的緊張は最高潮に達したのである。

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