長篠の戦い(十九)

 田峯城に入り損ねた勝頼一行は、更に進んで天野藤秀籠もる武節城へ向かったが、設楽ヶ原における武田方の大敗を受けて、奥三河の動揺は甚だしいものがあり、信濃国境付近の武節城とて安泰とはいえない情勢であった。一行は武節城に一泊しただけで周辺の政情不安定を嗅ぎ取り、信濃に向けて発向している。武節城周辺には地下人ぢげにんと思しき人々が、豺狼さいろうの如く夜陰に紛れ頻繁に出没し、矢弾によってこれを追い払わなければならない有様だった。

 しかし、このように付け狙われたり、腹を撃ち抜かれた草間官兵衛の如きはまだ幸運な方で、退却に失敗した甲軍の多くは、豊川や寒狭川、宇連川を越えることが出来ず溺死したり、山中に迷い込んで餓死する者が数多に及んだと伝えられている。

 このような惨状が繰り広げられたものであるから、多数の戦死体を目にした信長が

「四郎勝頼がこの中に交じっておるかもしれない」

 と疑ったことも無理からぬ話であった。

 事実、勝頼は山間の嶮岨な道を逃げるために、兜や具足など嵩の張る物を脱ぎ捨てなければならないほどの危機に陥っていた。もとどりを切った髪を振り乱し、泥にまみれた下穿き姿で北へ北へと流れていく武者集団を目にした村の人々は、その一行が村を通り抜けるに際し、皆家屋に隠れ、戸の隙間から物珍しそうにその姿を見ていた。勝頼とてその視線を感じないものではない。

 もし、この村の連中が長篠における甲軍の大敗を既に知っていたとしたら、いまの自分達の姿は人々に甲軍の敗北を確信させることになるだろう。そうなれば、武田の支配下にあるとはいえ父信玄のころにようやく靡いた人々のこと、これを機会に敵方に転じて、いつ襲いかかってくるとも知れなかった。

 その一行の目に、整然と並んだ鑓の穂先と指物が見えてきた。遠目に見える旗印は如何なる将のものか、早くも信長が妻籠口を押し破り、信濃へと乱入したものかと一行は一時的に恐慌に陥ったが、それは駒場まで南下してきた春日弾正忠虎綱率いる軍兵五千であった。愛用の鉄黒漆塗てつくろうるしぬり横矧桶側よこはぎおけがわ五枚胴ごまいどう具足と錆地塗さびぢぬり十八間星兜じゅうはっけんほしかぶとを着する春日弾正忠はその軍勢の先頭にあった。

 春日弾正は持参した新品の具足を着するよう勝頼に勧めた。弾正は言った。

「疾く、これなる具足を着されよ。我等北信の川中島衆がここまで出張ってきた所以は、怨敵が戦勝の勢いを駆って御家の領内深く付け入ってきたならば一戦遂げて討ち取るためであって、そうなれば御屋形様には休むいとまもなく御采配いただかねばならぬからです。虚脱なされておる場合ではありません。疾く、具足を着されよ」

 ようやく死線を越えてまとまった数の味方に出会えた勝頼であったが、春日弾正はまるで休んでいる閑などないぞと叱咤する如く言った。

 勝頼は、その春日弾正と視線を合わせることが出来なかった。

 ひとつには、もし春日弾正が本戦役に在陣しておれば、山県や馬場と同様に決戦回避を主張したに違いないと容易に想像できたからであった。視線を合わせて自信を粉微塵に打ち砕かれた心根を見透かされ、なにゆえ決戦を回避されなかったのかと詰られることを恐れたのである。

 もうひとつには、弾正の嫡男、源五郎昌澄の姿を見ないことであった。源五郎昌澄は決戦場である設楽ヶ原には在陣していなかった。長篠包囲陣の一角として有海村駐屯を命じていたためであった。長篠包囲陣は、主戦場たる設楽ヶ原における甲軍の壊滅に先立って、織田徳川別働隊に撃砕されていた。源五郎昌澄も、その波に飲み込まれ戦死したものと考えられた。

 勝頼は視線を逸らせながらも春日弾正に対し、

「すまぬ。源五郎昌澄はおそらく・・・・・・」

 と切り出すと、春日弾正はかえって

「武田の御屋形様が麾下将兵の戦死をとらえてすまぬと仰せか!」

 と大喝し、続けて

「場中に身を投じ一歩も退くことなく戦死を遂げたのであれば名誉。よく働いたというべきでしょう。その反対に敵に背を向け討たれたならば侍として死んで当然。生き恥を晒さなかっただけましというものです」

 と、全く気にするふうがなく、気丈であった。

 さて春日弾正忠の護衛を受けた勝頼は、上伊那の高遠城へと入った。群臣の中には

「高遠よりも下伊那は大島城に入って、不測の事態に備えた方が良いのでは」

 と勧める者も多かった。不測の事態とは即ち、信長或いは家康の軍兵が信濃にまで乱入することであった。奥三河の政情不安定を見るまでもなく、下伊那の地下人ぢげにん等が敵方の調略或いは煽動に乗って、叛旗を翻す恐れもあった。こういった動きを速やかに鎮圧するためには、高遠城よりも大島城の方が適当というのが衆目の一致するところであったが、勝頼は己が城主として初めてった高遠城を目指した。少しでも安心したかったのであろう。

 しかし高遠城に入ったからとて、勝頼の頭と身体が安まるということはなかった。勝頼には、今回の被害の全貌を把握しなければならないという、気の重い仕事が待ち受けていた。それは自らの決断がもたらした惨憺たる結果に否応なく向き合うことを勝頼に強要して、彼を疲弊させた。

 戦死傷者、行方不明者数は膨大で、大身の侍でも百名を優に越える損害であった。その他末端の軍役衆ともなれば万に達する人々が戦死したことが、ごく簡単な調査でも明らかとなった。

 勝頼は思い出していた。矢弾の餌食になると知りながら敵の陣城に向かって突き進む軍役衆の姿を。

 味方の屍山血河しざんけつがを乗り越えて木柵を引き倒そうと奮闘する軍役衆の姿を。

 物頭ものがしらは率先してそういった人々を率い、自ら好んで死地に身を投じているように、勝頼には見えた。

 勝頼はふと、出陣前に執行した亡父信玄の三回忌法要における不吉な出来事を思い出していた。群臣の大半に死相が浮かんでいたあの不気味な光景のことを思い出したのである。設楽ヶ原への進出を決意した軍議でも、 激しく反対した山県昌景の顔貌にはくだんの死相が浮かんでいた。

(或いは父が、手練の軍役衆を供に欲したのか)

 それは他人の耳に入れることが憚られる妄想に違いなかった。違いなかったが、そうでも考えなければ、人々があのような死地に好んで身を投じる理由が勝頼には見当たらなかった。

 勝頼は最終局面において、自ら敵本陣に斬り込もうとした我が身を振り返った。あの瞬間、父は勝頼をも冥府への供に連れて行こうとしたのかもしれなかった。

(父の魂魄が、この世に迷い出たのだ。自らが手塩に掛けて育てた群臣や軍役衆を、冥府への供に欲したのだ)

 勝頼は高遠に在城し、夜ごと敗戦の悪夢に悩まされながら、大変な数の跡目安堵状を発給しなければならなかった。

 家康討伐を企図して意気揚々出陣したこのたびの戦役のこれが結果か。

 そのことを想うと、いっそ幼年の武王丸に家督を譲って腹を切ろうかとも考えた勝頼なのであった。

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