長篠の戦い(十八)

 さてここに、逃げる勝頼一行と比較すれば更に弱体な一隊があった。それはもはや部隊のていをなしておらず、僅か三人の一行でしかなかった。

 それは、馬場美濃守より

「忠節の道を誤るな」

 と諭され落ち延びることを選んだ筑摩郡小池郷士草間官兵衛一行であった。一行は勝頼の落ち延びた方角を目指し、北へ北へと落ちていく最中、敵方に追われ、その発する鬨の声に逐一びくついて勝頼一行に合力するどころの話ではない。中間ちゅうげん次郎右衛門などは、官兵衛に対し

「殿、具足はお捨てなされ。落ち武者狩りに狙われかねん」

 と、具足を捨てるように進言する始末であった。官兵衛はそれに従い具足を脱ぎ捨て、次郎右衛門、次郎兵衛もこれに倣った。但し、官兵衛は得物である鉄炮は捨てなかった。

 一行は逃げる道中、声を潜めながら

「甚大夫はどうしたのかの」

 などと、身内の心配を口にしながら歩いた。

 弾が尽きたのを契機として、自らの寄親である土屋右衛門尉昌続一隊に加わり、敵の陣城に乗り入れた甚大夫の後ろ姿が、彼等の見た最後の姿であった。

「きっと生きてるずら」

 次郎右衛門は前を見ながら言った。それは、甚大夫の生存を信じて前を見ている、という性質の視線ではなかった。

 次郎右衛門は自らが発した言葉に何の根拠もないことをよく知っていた。次郎右衛門の言葉は、ただ、子を心配する官兵衛を励ます以上の意味を持たない言葉であった。そのことを次郎右衛門はよく理解しており、そのために官兵衛の眼を見ることができなかっただけの話であった。

 なので官兵衛も、

「なにゆえ甚大夫が無事と分かるか」

 などという無粋な問いを次郎右衛門にぶつけることはなかった。

 三人は暗くなってもひたすら歩き続けた。歩み止めれば敵方に捕捉されるか、落ち武者狩りに遭いかねなかった。しかしいくら歩き詰めに歩いても、勝頼の一行に出会うということはなかった。それもそのはずで、勝頼一行が田峯城から、更にその北の武節ぶせつ城を目指していたのに対し、草間官兵衛一行は伊那街道を黒瀬から田口、更に根羽に向けて一目散に北上していたからであった。草間官兵衛は勝頼の東側の街道を北上していたのである。これではお互いに並行しておりいつまで経っても邂逅できるものではない。

 官兵衛達は、山道にいくつも転がる遺体を目にした。先を歩いていた甲軍と思しき遺体であった。遺体は押し並べて裸であった。武田の敗戦を聞いて湧き出てきた落ち武者狩りによって、殺された挙げ句身ぐるみ剥がされたものと思われた。三人の間に、自分たちもいつこのような姿に身をやつすかもしれないという恐怖が走った。

 その三人の目に、信濃と三河を分ける国境の峠が見えてきた。

 無論峠を越えたとて、敵が追ってくれば危険であることにか変わりはないのだが、自分たちの故郷がある信濃が目前にあることは、官兵衛達を勇気づけた。三人の脚は自然と速くなった。

 そのときである。

 突如、鉄炮の轟音が山間にこだました。

 三人は一斉に頭を伏せた。いや、正確にいうと、頭を下げたのは次郎右衛門と次郎兵衛の二人であった。官兵衛は頭を下げたのではなく、その場に倒れ込んだものであった。

 三人は藪蚊にたかられても我慢して、辺りが暗くなるまでじっとその場に伏せていた。鉄炮の音は続かなかった。

「随分無駄に過ごした。先を急ぐべ」

 次郎右衛門がそう言って、官兵衛に出発を促したが、官兵衛は苦しそうな呻り声を上げるだけで立ち上がらない。

「どうしたずら」

 次郎右衛門が官兵衛の顔を覗き込むと、額には脂汗がびっしょりと浮かんでいた。官兵衛は苦しげに呟いた。

「撃たれたらしい。わしを置いてそなた等二人だけで落ち延びよ」

 次郎右衛門が見ると、官兵衛の左の脇腹に銃創があった。銃創は背中から入って、腹から抜けたように思われた。

「しっかりなされ。弾は貫通してます。上手くいけば死なずに済みますぞ」 

 次郎右衛門はそう言って官兵衛を励ました。

 この時代、鉄炮弾はその大半が剥き出しの鉛製であった。表面に加工が施されたような凝った技工のものではない。皮膚を突き破って飛び込んできた鉛は悪くすると体内で四散し、臓器や血管などを傷つけ致命傷を与えた。またそれで生き残ったとしても、体内に弾丸を残しておれば鉛成分が体内に溶け出し、中毒症状を引き起こして散々苦しめた挙げ句人を死に至らしめた。次郎右衛門が官兵衛の貫通銃創を見て

「上手くいけば死なずに済む」

 といったのは、そのためだった。

 官兵衛は次郎右衛門の言葉に励まされるように立ち上がった。次郎右衛門と次郎兵衛がその官兵衛を両脇から抱えて補助した。

 三人はなんとか信濃へと入った。

 三人がようやく安心したのは、駒場こまんばに至り、味方の大部隊の姿を見てからであった。目算ではあるが五千は下らぬ、完全に武装された味方の衆が、駒場にまで出張ってきている姿は掛け値なしに頼もしいものであった。

 官兵衛は駒場の味方部隊から、手当てを受けた。

「敵にやられたのか」

 手当の兵はそう問うたので、官兵衛は

「そうだ。敵はとんでもない数の鉄炮を備えておった。わし等鉄炮衆は狙い撃ちにされた」

 とこたえた。

 狙い撃ちにされたことは事実であったが、腹の傷は敵にやられたものかどうか、はっきり分からないものであった。逃げる道中に撃たれた、という事実が、微妙な嘘を官兵衛の口から語らせたのであった。

 官兵衛は応急手当を受け、その足で小池郷へと入った。官兵衛の女房は、甚大夫の姿が見えないことで

「甚大夫は如何なされた」

 と官兵衛に問い詰めた。

 官兵衛は

「敵陣に乗り入れたあとは姿を見んところを見ると、悪くすれば敵陣中で討ち取られたのかも知れん」

 と沈痛な面持ちでこたえると、女房はその場に泣き崩れた。

 官兵衛は指物にくるんで持ち帰ってきた鉄炮を、三右衛門尉に手渡した。

「甚大夫のことは諦めた方が良いかもしれん。わしもこの傷だ。次にいくさがあれば、そなたが行かねばならん」

「私がいくさに・・・・・・?」

 三右衛門尉はそのように言われ困惑した。

 これまで兄甚大夫がいたことで、家督の相続など考えたこともなかった身である。撃ったこともない鉄炮というわけでもなかったが兄ほど鍛錬を重ねてきたわけではなかった。当然いくさになど出たこともない。

「心配するな。うちには次郎右衛門も、次郎兵衛もおる。どちらもお前よりはいくさ場のことを知っておる。頼るがよい」

 官兵衛はそういうと、痛そうに顔を顰め、屋敷の中に入ってしまった。

 その頃から官兵衛は体力の低下が甚だしく、立って歩くことが稀になった。

 三右衛門尉は鍬や鋤を鉄炮に持ち替えて鍛錬しなければならなくなった。官兵衛を驚かせたのは、案外筋が良いことであった。父や兄の鍛錬を傍目で見ていたことで、身のこなしなどを覚えていた結果であった。

「これなら家督を継がせても大丈夫だ」

 官兵衛は、またぞろ的を撃ち砕いた三右衛門尉の姿を、頼もしげに眺めたのであった。

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