御館の乱(五)

 あらかじめ氏政に通知したように、五月中旬、勝頼は先遣の典厩信豊を越後に向かわせている。勝頼は信豊を追うように、少し遅れて六月四日に甲府を出発した。その行軍はゆっくりとしたものであった。信濃の軍役衆を糾合しながらという事情もあったし、武田分国が侵されたわけではないという危機感の薄さもその理由だった。

 しかし勝頼にはそれ以外にも行軍を遅らせたい理由があった。要請に応じて出兵したこの期に及んで、勝頼は氏政に根強い不信感を抱いていたのだ。これも無理からぬ話ではある。

 勝頼から見ればこのたびの越後錯乱は景勝と北条の争いに他ならなかった。しかし氏政は依然として常陸小川台に陣取る東方之衆との退陣を強いられていた。

 率先して景虎に合力すべき氏政が常陸でもたついていることで、勝頼に

「氏政は武田にのみ犠牲を強いて、漁夫の利を得るつもりなのではないか」

 という疑念が生じたのである。

 このように疑いはじめると、勝頼は内心穏やかではなかった。氏政の要請に唯々諾々と従ってよいものかとの疑念を払拭できなかった勝頼の許に、跡部大炊助が数騎の馬廻衆とともに勝頼本隊まで駆け寄せてきた。その手には二通の書状が携えられていた。

 跡部は困惑した表情もそのままに

「海津城に喜平次景勝から和睦の使者が参ったとのことです。喜平次書状が回送されてきました」

 と勝頼に伝えた。勝頼はひと言

「まず書状を」

 と求めた。


(或いは断末魔か)

 勝頼は景勝書状にじっと視線を落としながらそのようなことを考えていた。景勝書状には黄金、銅、刀剣類等奢侈しゃし品の進呈、上杉領の一部割譲等の条件を以て当方と和睦願いたい旨書き連ねられており、その末尾に景勝派諸将の連署が並んでいた。なりふり構わぬとはこのことであった。

 このとき景虎派と景勝派は越後と上野において激闘を繰り広げていた。五月二十日には景勝が景虎方荒川館を攻撃しているし、北条氏政の要請に応じて越後に派兵した葦名盛氏は菅名庄を制圧した後、同二十八日に景勝方のいかずち城を陥れている。勝頼は景虎に合力することについて迷いはあったが表向き北条との同盟を重んじて景虎救援のために出陣したことは衆目の一致するところであった。そのことは景勝にも伝わっていたことであろう。

 景勝は国内の景虎派だけではなく、国外の北条、武田、葦名等とも戦わなければならない立場にあったわけである。

 景勝から見れば北条は三郎景虎の出身母体であるのでこれを抱き込むのは不可能であったし、葦名の侵攻が越府に到達するには今少しの猶予があった。しかし信濃を領する武田は景勝にとって直近に差し迫った脅威であった。したがって景勝は当面の敵を三郎景虎一人に絞り込む目的で、和睦の使者を武田陣中に放ったのである。

 末尾の連署に見える名は近隣に聞こえた越後国衆のものであった。群臣の支持を得ていることをこの連署によって強調しようという景勝の意図がひしひしと伝わってきたが、そのうちの何人かは一族が景勝派と景虎派に分かれて相争っているということもまた勝頼には伝わっていた。なので越後重臣の連署が並んでいることのみを以て景勝が全面的に越後国衆の支持を得ていると判断することは出来なかった。

 しかしその立場は景虎とて同じことである。

 したがって勝頼は連署よりも景勝が書面で示す和睦条件に注視した。もし奢侈品の贈呈や領土の割譲等といった諸条件が果たされるならば、そのうちの幾分かを桃井将監他加増を求める軍役諸衆に下賜することが出来るだろうし、給地不足に悩む勝頼にとっては一助となるだろう。好条件ではある。

(景勝は余の膝下に跪いておる。それと比較して三郎景虎と氏政は・・・・・・)

 勝頼には、甲相同盟を前提にその合力を当然のものと考え、ただ援兵の派遣のみを要請してきた三郎景虎やその背後に控える氏政の態度が景勝のそれと比べて不誠実で傲慢なものに映って仕方がなかった。勝頼は感情に流れつつあったが、それでも北条との友誼を廃することはなお憚られた。

 明確に景勝に与することを選択した場合、西の織田徳川に加え東から氏政の圧迫を受けるであろうこともまた明確だったからである。典厩信豊が言ったとおり、よしんば景勝に合力して景虎を討ったとしても、混乱甚だしい越後を景勝が鎮撫するためにはなお幾許かの時間を要するであろう。同盟相手としては頼むに足りぬ。

 勝頼は景勝書状に目を通し、氏政景虎兄弟の不誠実な態度も相まって迷い、越後への道中、馬に揺られながら考えがまとまることがなかった。この間も北条の動きを注視していたものであるが、

「近々常陸の怨敵を撃滅して越後へ乗り入れる」

 と景気の良い文言が並べられた書状を寄越すだけで、本当に氏政が小川台の陣を払って越後に乗り入れつつあるとの話は寡聞にして聞かない。

(氏政は越後の仕置を武田に押し付けて、自領防衛にのみ狂奔しておる)

 氏政に対する勝頼のこういった不信感は、氏政書状によって払拭されるということはなかった。

 氏政の対応が不誠実であるとの印象は武田家中に共有されていたものか。勝頼に先立って海津城に入り、最初に景勝書状を目にした典厩信豊は景勝からの使者を斬り捨てなかった。それどころか客分として相応に遇し書状を受け取り、海津城代春日弾正忠虎綱とともに景勝からの和睦申請についてどのような意見を附して勝頼の許に回送するかをあらかじめ協議している。時間は遡るが以下のような遣り取りが典厩信豊と春日弾正との間で交わされていた。

 典厩信豊はくだんの景勝書状を虎綱に示しながらその意見を求めた。虎綱は父とともに海津城に詰める子信達のぶさとに支えられながら信豊との協議に臨んだ。

 信達によれば、虎綱は一年ほど前からかくの病に犯されてそれでもなお気丈であったが、謙信が卒したと聞いた途端衰弱甚だしいという。

 永禄四年(一五六一)に信玄と政虎(謙信)の両雄が激突してこの地を血に染めた八幡原の戦いにも従軍していた虎綱である。謙信の類い希な軍略は身に浸みて痛感しただろう。信玄より対越後の最前線である海津城に配されて二十年近く、虎綱は当代随一と謳われた軍神と対峙し続けた。その重圧たるや想像を絶するものがあったに違いない。そしてその謙信が死んだと聞くや、たがが外れたように春日弾正忠虎綱の精神と肉体は亡びようとしていたのである。

 信豊が最後に会った虎綱は歴戦の勇士そのものであった。百姓の家に生まれ、文字の読み書きという当代の武将にとって当然備わっているべき才覚を欠き、ただひたすら武道を心懸けることによってのみ身を立ててきた虎綱の姿――浅黒く日焼けした顔貌、鍛え上げられた身体と立ち居振る舞い――は、具足を装着しながらなお、その下に無駄のない筋肉が備わっているであろうことが、ひと目見て伝わってくるほどであった。そういった虎綱の姿は他国に恐れられた甲州武士の姿そのものであった。

 その虎綱が今、信達に支えられながら信豊の目の前にある。体は最後に会った日に比べて一回りも二回りも小さくなっていた。顔は日焼けした健康的な浅黒さとは性質を異にするもので、死相が浮き影が差しているための黒さに信豊には見えた。

 元亀三年(一五七二)、信玄は躑躅ヶ崎館に将軍義昭の御内書を携えて下向してきた公儀の使者を迎えている。

 この使者を饗応した信玄はその席で、汁物のついた指先を頻りに畳で拭う幕府使者の所作に気付き

「幕閣にしてからがあのような無作法を働くから信長に侮られるのだ」

 という所感を漏らしたという。

 その信玄の薫陶を受けた虎綱だ。越後先遣をこの海津城に迎えると聞いて、礼を欠かすことは出来ないと病床を這って出たのであろう。それが春日弾正忠虎綱という男なのである。だから信豊はその体調を慮って

「床に伏したままでよろしゅうございます」

 などと申し向けるような余計な遣り取りを虎綱と交わすことはなかった。 

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