御館の乱(四)
「困ったことになった」
謙信の死去が国内に伝わってから、勝頼の口癖のようになっていたこの言葉が、北条からの書面を目にしてまたぞろその口から漏れた。
「左様。困ったことになりました」
信豊も同意見であった。
長篠大敗以来、勝頼は美濃、北三河、遠江、駿河方面において守勢に立たされていた。小田原北条氏との同盟、上杉との和睦のために東と北へ拡大出来なかった武田は、謙信の上洛戦に起死回生を賭けるよりほかに道がなかった。その謙信が急死したことすら勝頼にとっては「困ったこと」であった。そこに持ってきて家督相続を巡って謙信養子の二人が相争っているのである。もはや上杉は上洛どころの話ではなくなっていた。
「我等が越後へ寄せて三郎殿に合力すれば、喜平次は手もなく屈服するでしょうが・・・・・・」
信豊は言葉を区切った。勝頼がどのように考えているか、その存念を勝頼自身の口から引き出そうとしているようであった。
勝頼は近隣諸国の地物が描き込まれた絵図面を開いた。西には織田徳川が厳然として立ちはだかり、この方面への武田の拡大を許す隙がない。東には伊豆、相模、武蔵他関東数カ国を治める北条の大領がある。勝頼には東西大勢力の間に挟まれている武田領国が薄皮のように頼りなく見えた。
「もとより北条との友誼を断ってまで喜平次風情に合力する謂われはない」
そうは言ってみたものの、勝頼は絵図面から目を離すことが出来なかった。
薄皮のような武田領国の東西には巌のようにどっしりと北条、そして織田の領国が据わっている。三郎景虎が跡目を相続すれば、越後はさながら北条の分国となるであろう。領国拡大の出口が全く失われることになるのだ。
このころ、勝頼の許には頭の痛い問題が持ち込まれていた。今勝頼の目の前に座る典厩信豊の姪婿
「御加増賜りたい」
との願届が頻繁に寄せられていたのである。
桃井に限らず軍役衆はみな疲弊していた。長篠敗戦以来東濃並びに北三河を立て続けに失陥したことで徳川家康が頻りに駿遠に手出ししてくるようになった。武田の兵力は徳川に倍するものであったが、これを一挙に撃滅しようと押し寄せれば長篠戦役同様信長が
このようであるから、徳川の攻勢に対して武田は防戦一方であった。軍役衆は頻繁に駆り出され、領国拡大を見込めない戦を幾度となく強いられた。兵を出しても彼等軍役衆に下す知行地が得られないのである。出師を経るごとに軍役衆の軍装に乱れが生じてくるのを見逃す勝頼ではなく、そのたびに身形を調えるよう通達する条目を諸将に書き送ったが、このまま利益の上がらぬ戦いを強いられ続ければそれも早晩限界に達するであろう。
桃井将監の願届はそのような事情を背景としたものであり、彼ひとりのわがままではない。
桃井などは加増を申し出ることが出来るだけまだましな方だ。一門衆という立場があるから知行地不足を勝頼に訴え出ることが出来る。譜代や
(安易に三郎景虎に合力してよいものか。武田に利するところはあるか。氏政を利するだけではないのか)
と悩まざるを得なかった。
越後が相模の分国となれば、この方面に拡大することもまた不可能となるのだ。まことに困ったことだらけであった。
考えを巡らせる勝頼の脳裏に、信玄遺言のうちの一節が浮かんだ。元亀四年(一五七三)、信玄は遺言の枕頭に集った諸将に対し長い長い遺言を遺していた。その中で信玄は
「信玄死すと知れば氏政は武田に預けている人質すら捨てて必ず裏切るだろう」
と予見していた。
景虎への合力に反対する意見を聞きたいと考えを巡らせるうちに、亡父の遺言を思い出したのだ。そこで勝頼は典厩信豊に問うた。
「父の遺言を覚えているか」
「しかと記憶しております。北条は必ず裏切ると」
氏政の要請に唯々諾々と従ってよいものか。勝頼は亡父の遺言を踏まえた典厩の意見を聞きたかった。典厩信豊もまた信玄の枕元に同席していたからだ。
信豊は言った。
「しかしご心配には及びますまい。昨年御先代の御葬儀を執行し、内外に公にしましたが氏政公が我等との友誼を断つ気配はありません。翻って喜平次は群臣に見限られ、たとえこれに合力したとしても今後にわたり我等の頼みとはなりますまい。屋形様おおせのとおり、喜平次風情に味方して北条との友誼を自ら断つ謂われはございません」
信豊は至極まっとうな意見を口にした。
勝頼は反対意見を聞きたかったものであるが、武田の利益を考えると景虎に合力するという意見以外のものが出てくるはずがなかった。今や越後は混乱の巷と化していると聞く。景虎が跡目を継いだならばその混乱を速やかに収束させるうえで氏政の影響力を期待できるであろう。景勝ではどうあがいても行使できない影響力である。なので信豊の意見を聞いて勝頼は言った。
「全く以てそこもとの言うとおりだ。我等どのみち活路は西に見出すより他ないのだ」
決然と言い放ったが、本当にこの選択は間違っていないのか。内奥から湧いて出て来る疑問を強いて裡に封じたので、決意を口にしたものの、勝頼の表情は飽くまで硬いままだった。
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