甲相手切(四)

 ともあれ氏政は、御館の乱に際して勝頼がどのように行動しようとも、遠からず甲相同盟を破棄する肚であった。勝頼の仇敵ともいえる家康に太刀、馬、青鷹を贈呈したのはその始まりであった。穴山信君から、伊豆方面から流れてきた一行が遠江へと抜けていったという情報を得た勝頼は、早速諸将を召集した。年始の軍議で決した今年一年の方針を早くも見直す必要に迫られたからであった。勝頼はその席で、年初の軍議と打って変わって積極的に発言した。

「依然、北条家から家康への使者と断定できたわけではないが」

 と前置きして、ことの経緯を陳べた後、

「亡父信玄は余に、氏政は武田に預けている人質も顧みることなく必ず裏切るのでその覚悟をしておくようにと遺言した。もとより父の遺言を飽くまで遵守してきた余である。今、氏政の所業を鑑みるに、彼は昨年の越後錯乱以来、我等武田にのみ出陣を促して自身は他国切り取りにかまけ、ようやくにして重い腰を上げたかと思えば降雪を理由に弟三郎景虎を救うこともなく本国へと引き揚げた侫士ねいしである。父が遺言した裏切りの予兆とも見得みえる。弟すら見捨てたの侫士が、親族とは申せ妹婿に過ぎぬ余を扶けると思う者はその存念を陳べよ」

 と、もはや甲相手切は疑いがないものの如く諮問した。すると小山田左兵衛尉信茂が言った。

「待たれよ屋形様。それがし小田原と国境を接しており、確かに惑説がこの耳に入ること一再ではござらなんだが・・・・・・」

 信茂が言葉を句切ると勝頼はその続きを遮って

「惑説とはなにか」

 と訊ねると、信茂は

「氏政公は景虎を見捨てた武田に遺恨を抱いているが我慢を重ねているというものでござる」

 するとこれを聞いた勝頼は

「笑止なり。余は景虎と景勝の和睦を調停して救おうとした者であり、景虎を見捨てたのはむしろ氏政である」

 と言ったが、信茂は

「しかしこれとて凡下の惑説。確かな筋からはそのような遺恨話は入ってござらん。そのようなものに惑わされて自ら友誼を断てば、甲斐の武田は下々の噂に惑わされて思慮なく親族の交わりを断ったなどと嘲りを受けるでありましょう」

 となおも諫言して押し止めようとした。これに穴山信君も

「自らの注進した身ながら、一行が小田原の使者であるとの確証はござらん。まずはそれを見極めてから・・・・・・」

 と続けると、跡部大炊助が発言した。

「穴山殿のご意見ごもっともなれど、既に一行は遠州へと消えていったのでありましょう。北条から来て徳川へ行ったものかも今となっては見極めようがございません。この上は最悪の事態を想定して・・・・・・」

 と跡部が言い終わるのも聞かず、穴山信君は

「この期に及んで一行をみすみす見逃した過失をあげつらうか!」

 と怒号した。跡部は言葉尻を捉えられて慌てふためきながら

「さにあらず、さにあらず。そのことについてはやむを得ない措置であったと思います。そうではなく、一行の来し方行く末を見極められない以上、北条の意図が那辺にあるかも見極めることはかないません。このまま拱手傍観して、それこそ北条家の裏切りが現実のものとなれば先ず危機に陥るのは駿河です。しかしその裏切りを勘繰って国境に城を新築などすれば、藪をつついて蛇を出すの喩えどおり北条の裏切りを誘発するようなものでこれもまた良策とはいえません。ここは城代の城替えなどにとどめ、内々の手当にのみ専心すべきと考えますが如何か」

 と献策すると、一同は静まった。駿河赴任といえば武田分国の国衆がみな押し並べて嫌がる任であった。高天神城を追い詰めた家康が駿河に連年押し寄せて、そのたびに勝頼の後詰を得てようやくこれを追い払っている地域であり、これに北条の圧迫を受けるとなるとその任務は一層過酷なものとなるであろうことが容易に想像できた。なので諸将は秘かに跡部に対して

(自らは身を府中に置くのみで城代の苦労も知らぬ文吏めが。要らざる献策をする)

 と憤怒を抱いたのであった。

 勝頼は各将の意見を聞いて言った。

「よろしい分かった。今回ばかりは堪忍してやろう。しかし内々の手当のこともあり近く城代を替えるつもりではある。各人、その心構えをしておくように。一同大儀であった」

 と散会を告げたのであった。このような軍議を経て、武田領内では昨年亡くなった春日弾正忠虎綱の跡目を継いで海津城代にあった春日信達が駿東に赴任し、更に内藤修理亮昌秀死後空席となっていた西上野箕輪城代に、その養子にして高遠衆保科正俊実子の内藤修理亮昌月まさあきを赴任させた。勝頼としては内々の手当を意図したものであったが、同盟国との国境にあってこれまで空席だった箕輪城代を新たに赴任させた措置は北条の態度を硬化させた。或いは氏政にとっては甲相手切に向けた好都合の措置だったといっていい。氏政は駿豆国境の韮山城及び東上野の城一、二箇所の普請強化を命じた。国境の武田はその様を見て勝頼に注進した。

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