長篠の戦い(五)

 勝頼が長篠城への猛攻を開始した二日後の五月十三日、信長は大軍を引率して岐阜を出発、桶狭間合戦における吉例を踏まえ尾張熱田神宮に戦勝を祈願した翌日、嫡子信忠とともに岡崎に入城していた。信長は岡崎城において鳥居強右衛門尉すねえもんのじょう勝商かつあきと直接面談し、長篠城の危急について報告を受け、十六日には家康と共に牛久保に入ったという。

 甲軍によって諸方を放火され、荒れ果てた牛久保を検分する信長。

 家々は打ち壊され、田植えが済んだばかりの田、そして畑のたぐいは踏み荒らされ、草木までが残らず刈り取られていた。痛々しくも露出した地面は篠突く雨に叩かれて、辺り一面見渡す限りの泥濘という荒廃ぶりである。

 いまは梅雨時期にあたっており水に困るということはないが、それが終わればたちまち水利に窮することは明らかであった。なぜならば牛久保を荒らし回った甲軍は、橋尾に至って灌漑用水の堰を切ってしまっていたからであった。牛久保のみならず、東三河を襲うであろう凶作とそれによる領民の塗炭は、いまから約束されたようなものであった。

「毎度のことながら甲軍の悪逆非道は許し難い」

 牛久保の惨状を巡検して、信長はこう呟いた。

 城に堅く閉じ籠もる籠城兵を誘きだすために、その眼前において刈田狼藉を働く挑発行為はいくさの際の常套手段であった。信長は「甲軍の悪逆、許し難い」と断じはしたが、自分自身も同じようなことはおこなっているし、規模の大小こそあれこの時代、合戦のたびに当然のようにおこなわれることであった。

 ただ、やはりその被害は動員される兵数に比例して大きくなった。全国有数の大大名である武田が刈田狼藉をおこなえば、その被害は自然、甚大なものとなった。永禄十二年(一五六九)におこなわれた信玄による関東攻略においては、甲軍二万が北条領国を荒らし回ったために、不作等の影響が諸方に及び、六年経った現在に至るまで関東の人々を苦しめているという。

 また元亀四年(一五七三)には、信玄による西上作戦の過程で、穐山伯耆守虎繁率いる伊那衆が岐阜城下に乱入して放火狼藉を働いている。このときも京畿で釘付けにされていた信長は、穐山伯耆守の一軍を追い払うことも出来ず、かかる事態を座視する以外になかった。相前後して穐山伯耆守は、東濃岩村城を接収し、城主で信長五男の御坊丸を甲府へと送り、信長の叔母であるおつやの方を妻に迎えるなど、文字どおり暴虐の限りを尽くしている。無論これらは、信玄の意を受けておこなわれた挑発行為に違いなかった。

 牛久保の荒廃は信長にそのことを思い出させた。信長は武田討伐の意を改めて強くした。

 京畿周辺を治める信長にとって、最も重要なことは東における経略ではなく、天下静謐であった。将軍義昭が京畿を離れたいま、かつて公儀(幕府)が担ってきた天下静謐の実現は、いまや自分に課せられた義務だと信長は考えていた。

 もともと公儀の号令に従わなかったような連中が、将軍どころか無位無冠の信長に対して、唯々諾々と従うわけがなかった。こういった連中が甲斐の武田に大いに期待を寄せていることを知らぬ信長ではない。武田との合戦に勝利してそれを喧伝すれば、反信長勢力が動揺することは疑いがないところである。抵抗する者はとことん抵抗するだろうが、それでも何割かの敵は武田の敗北を聞いて恭順の意を示すかもしれない。つまり、東で武田を叩いておくことが天下静謐につながると信長は考えた。

 ひとくちに武田を叩くとはいうものの、世上の人々がどう見ても信長の勝利であると納得出来るような勝ち方をしなければ、諸敵の抵抗は今後も続くことになるだろう。決戦の帰趨によっては信長は京畿における地歩をまったく失ってしまう危険性すらあった。

 信長にとって武田との決戦は、中途半端な勝利では意味がなく、いわんや敗北など絶対に許されない戦いだった。

 それだけに、信玄以来鍛えに鍛えられた甲軍の精強である点は、ともすれば信長を不安にさせた。

 三方ヶ原から逃れた佐久間信盛より聞いたところでは、甲軍の各物頭ものがしら(軍団長)は諸衆の先頭に立つ剛勇、諸衆もこれに倣い物頭を置いて遁走するようなことがなく、上下一致して統制が行き渡っていたという。とりわけ信長を瞠目させたのは、馬上衆の強力な点であった。信盛によれば、頃合を見て集団で乗り入れてきた騎馬隊は、畿内近国ではまず目にすることがない巧みな馬術によって味方の陣立てをあっという間に寸断してしまったという。そして、このとき織田徳川連合軍をずたずたに引き裂いた武田馬上衆の物頭こそ、武田勝頼であった。今回相手にしなければならないのは、その勝頼なのである。

 無論、策なくして決戦を望む信長ではない。今回諸国から取り揃えた鉄炮約三千挺、それに大量の尺木は甲軍に対し圧倒的勝利を得るため準備したものだ。鉄炮の脇を固める弓の張数も、過去に類例がないほどであった。要するに信長は、尺木を組んで戦場に陣城を構築するつもりであった。尺木を組んで固めた自陣近くに敵を誘引して、弓と鉄炮によって叩くつもりだったのである。

 この時代、味方の兵、とりわけ名のある将を討たれることは、敵に勝利を喧伝されてしまう恰好の材料になった。事実、三方ヶ原合戦の際には織田方でいえば平手汎秀、徳川家中でいえば鳥居四郎左衛門尉忠広、本多肥後守忠真、中根正照、青木貞治、成瀬藤蔵正義、田中彦十郎等名だたる将が討ち取られ、千人にも及ぶ戦死者を出した。信玄はこの戦果を大いに広報に利用している。これにより織田徳川連合軍の大敗北という報せが全国に知れ渡ってしまったのであった。

 合戦の勝敗などというものは、たとえ利を失った側であっても、自分が敗北を認めさえしなければ敗北にはあたらない、というところがあった。たとえば永禄四年(一五六一)におこなわれた八幡原の戦いでは、信玄は舎弟典厩信繁、山本勘助をはじめ多数の将を失ったし、川中島を掌中に収めて越後攻略の足掛かりにする、という戦略目標をも失ったが、勝ち鬨の儀を執行しており他国にも勝利を喧伝している。敗北を自ら認めて求心力を低下させる愚を好んで犯さない判断は、国主としては当然であった。

 ただ、いくら本人が負けを否定したとしても、名のある将を多数討たれるようなことになればそれにも限界があった。永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いや、少し下るが天正十二年(一五八四)の沖田畷の戦いなどはその最たる例で、前者では今川義元が、後者では龍造寺隆信が討ち取られている。いずれも全軍を統率する大名であって、こういった将が討たれてしまえば、いくらその後継者が敗北を否定したとしても誰もそのことを認めはしなかっただろう。

 その意味で信長は、この戦役において麾下の名のある将が討たれることのないよう、また味方の兵の犠牲が少なくなるよう、細心の注意を払うつもりであった。陣城を構築しようとしたのはそのためだ。

 馬術に優れた武田の馬上衆の突進を許せば、将兵に多数の犠牲者が出てしまうだろう。そうなれば、たとえ長篠城を救い得たとしても、そのことを宣伝材料として利用され、武田方に勝利を喧伝されてしまうことが考えられた。

 逆にいえば、戦後、いくら勝頼が勝利を強弁したとしても、誰もそのことを信じないほどの打撃を与えることが、信長にとっては重要であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る