高天神城陥落(三)

 明けて天正九年(一五八一)正月、勝頼は年始の軍議に当たって諸将に諮った。それは、先々代信虎による開府以来六十余年にわたり甲斐及び分国統治の中枢であり続けた躑躅ヶ崎館を棄て、新たに城郭を建設して本拠地を移転するというものであった。

 以前は軍議をいたずらにかき乱すだけだった穴山梅雪斎不白は、この軍議において

「屋形様に申し上げます。それがし、御先代が生前、武田が大を成し府第が手狭になれば、他国であれば相模国は座間星谷ほしのや、当国においては韮崎七里岩上が本拠を構えるに最も良しと仰せであるのを聞いたことがございます。屋形様の武功によって相模が分国となるのも時間の問題で、本来であれば相模併呑を以て星谷移転を断行すべきところ、左様にお急ぎであれば我が知行地ながら韮崎七里岩一帯を進上しましょう」

 と、自ら進んで領地を献上することを申し出たのであった。

 先年、武田家中において特別の称号ともいえる陸奥守に任じられた穴山信君であったが、昨年末、何か思うところがあったためか剃髪して梅雪斎不白を名乗るようになっていた。そのころから梅雪は、以前と比べて穏やかになったかのように、周囲には思われた。より具体的にいえば軍議で首脳部の方針に殊更反対するようなことがなくなったし、江尻城の在番体制についても、非番の外出禁止は相変わらずだったが、ことあるごとに武道に励むよう通達することがなくなったという。具足の手入れが出来ない在番衆に対しては御借具足として城中に保管しておいた具足を宛てがい、実質的にその者の具足とする措置を採っているという。

 その梅雪が、信玄生前の意向とした発言は、勝頼も信玄本人から聞いたことがあった。三増峠の戦いの折、相模に至り北条領国の巡見に随行したときであった。

(そういえば、あの時は梅雪も同道しておった)

 勝頼はそのことを思い出した。そして信君に対し

「ありがたく承ります」 

 とこれを受けた。本拠移転と移転先について、議事はすんなり進み、次は依然遠州において家康の重囲に陥っている高天神城救済の策についても論じられ、これも特に紛糾することはなかった。源三郎の身柄を信長の許に返した経緯については先に陳べた。これは佐竹義重の策謀によるものであったが、兎も角も人質だった織田源三郎を織田家に還した事実は事実であったから、これを以て和睦交渉を進めようとした勝頼であった。しかし案に相違して信長からは相手にされず、勝頼は改めてその交渉相手を信忠に変更して交渉を継続中であった。そのような状況下、高天神城に後詰を送り込めば信忠との交渉も決裂に終わるという葛藤は、武田家中で未だ解決されてはいなかった。もはや高天神城への後詰派遣の案は、横田甚五郎の注進を以て放棄された観すらあり、そのため後詰を派遣するか否かで軍議が紛糾する余地もなかったわけである。救済策として代わって提案されたのが

「高天神城及び小山、滝堺城の明け渡しによる高天神城兵の助命」

 という案であった。もはや武田家中においては主敵は北条氏政であって、対織田徳川戦の戦意は喪失していたといって良い状況であった。軍議では、武田が遠江に確保している三つの城の引渡を家康に打診して、そのうえで開城退去するように、城主岡部丹波守元信に命ずることが決した。軍議の後、跡部勝資は広間に残るように勝頼から指示された。勝頼は跡部と二人きりになって言った。

「梅雪の様子が不審である」

 勝頼がそのように言ったことは、跡部勝資にも心当たりがあった。ことあるごとに勝頼の意思決定に噛みついてきた少し前までの勢いがない。それは勝頼等首脳部にとって好都合ではあったが、同時に不審を感じさせる変化ではあった。

「家康と通じているということはないか」

「まさか!」

 勝頼が口にした疑惑に、跡部は目を剥いて驚いたような表情を示した。跡部勝資は続けて

「あり得ない話です。家康と通じていながら自らの知行地を御屋形様に進上するようなことがあるでしょうか」

「謀反の企みと知行地進上とは関係あるまい。寧ろ、謀叛の企みを隠すために知行地を進上しようと申し出たのかもそれん。そのことを考えたことはあるか」

 跡部勝資はなおも勝頼の言ったことが信じられないという様子で、その問いかけにこたえることが出来なかった。困惑しきりの勝資に対して、勝頼はくすりともせず続けた。

「斯くの如く人の心は読みがたいというたとえ話をしたまでだ。本気で梅雪謀叛を疑っているわけではない。しかしその心構えは必要だということだ。本拠地移転は心構えのうちのひとつである」

 勝頼はそういうと、戸惑う勝資を尻目に呵々と笑って奥へと立ち去ったのであった。

 穴山梅雪が勝頼に進上し、新たな本拠地と想定した韮崎七里岩は、甲斐一国に限定して見た場合、西に偏っているが、信濃や駿河を含めた分国を含めると、その領国のほとんど中枢に位置している。甲信に跨がる八ヶ岳の山体崩壊によって形成された韮の葉状の台地であり、韮崎という地名はこの七里岩の形状に由来するようである。南北の長さが七里(約三十キロメートル)に及ぶという伝承から、七里岩の名称で呼ばれた。台地の西側には釜無川、東側には塩川がそれぞれ流れており、この両川と、それぞれの水流に浸食された河岸段丘が天然の要害を形成しているという、築城するに理想的な地形である。特に釜無川に浸食された西側は峻険な浸食崖であって、このひときわ印象的な崖を指して七里岩と称する場合もある。台地南端の高低差も大きく、かかる特徴を有する七里岩南端に築城すれば、敵の攻撃正面は城の北側に局限されることとなるわけである。城の縄張りをおこなったのが何者であるか、今日それを伝える史料はないが、丸馬出や三日月濠、東西の出構でがまえ等、戦国期に武田領国で築かれた城郭の特徴を悉く備えており、文字どおり武田家総決算とも呼べる巨郭であった。政庁機能の移転も当然想定されていたわけであって、新たなる府中として新府城と名付けられることとなった。上のとおり城の弱点はほぼ北側に限定されており、同じ七里岩上の新府城より北側、信濃寄りに白山城、能見城等の支城が築かれ防備を固めた。

 新府築城が決定されると、分国中から普請役が召集された。築城予定地の野山は人々が寄ってたかって削平し、途端に人工物としての風景を示し始めた。

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