長篠の戦い(十二)

 地衆を先導に立てているとはいえ、かかる闇夜を目的地まで行くことが出来るだろうかという不安は、道中忠次の頭から離れることはなかった。行軍を開始して間もなく、雨はやんだ。しかし既に具足と下履きの間には雨が流れ込んでおり、しかも湿気が満ちているから下履きが乾くということがない。加えて峻嶮な山道である。人々は汗か雨が分からぬ水により、全身しとどに濡れていた。

 忠次は、不快な具足を脱ぎ捨てたい衝動に駆られた。重く暑苦しい具足を脱ぎ捨て、素肌で攻め寄せたとて、合戦の帰趨に影響を及ぼすものではあるまいという考えが、一瞬忠次の脳裡をよぎったが、彼はすぐにその考えを払拭した。

 そして彼は後ろを振り返って言った。

「かかる暗夜にあっては、いつ敵襲があってもおかしくない。蒸し暑く不快であるが具足を脱ごうなどとはゆめゆめ考えるな」

 それは忠次自身に対する警句でもあった。

 闇夜は次第に白みがかってきた。忠次は木々の隙間の道なき道を、地衆に続いてあるく途次みちすがら、その木々の合間から長篠城と、それを取り囲むように配された付城郡を目にした。忠次は地衆を呼び止め尋ねた。

「鳶ヶ巣山砦はどれか」

 地衆は困惑しながら

「お侍が造った砦のことを我等に尋ねられても分かりません」

 と、こたえたので、もっともだと思った忠次は別のことを尋ねた。

「それでは、あのひときわ大きな砦まで、いかほどあるけば辿り着けるか」

 最大の砦こそ、鳶ヶ巣山砦と思われたからであった。

「左様、あそこまでなら一刻半(約三時間)といったところですかな」

 山に入ってからこれまで、蚊にたかられ蜘蛛の巣を顔にへばりつかせながら、四刻(約八時間)を越えて歩き通しに歩いた忠次は、この言葉に力を得た。忠次は敵陣に接近していることを意識して、具足を脱がないように指示したときと打って変わって、後続の人々へ小声で

「あと一刻半ほどだ。頑張れ」

 と伝達していった。

 この伝言が部隊に知れ渡るにつれ、折に触れ後ろを振り返る忠次は、先ほどまでくたびれ果てていた人々が、俄に力を得てきたことを感じた。

 そこへ、先頭を歩いていた忠次に追いつき横並びに並ぶ者が現れる。誰かと思えば奥平定能である。

「後ろへ下がられよ。先頭はそれがしが歩きますゆえ」

 忠次はそう咎めたが、定能は

「貴公こそ先頭を譲られよ。これは我が子九八郎信昌を救うためのいくさ。そのいくさで他家の者に先陣を譲ったとあれば奥平家累代の恥辱。貴公は先陣を我等に命じ、重ねて全部隊にその威令を徹底させていただきたい。抜け駆けまかりならぬと」

 と言って譲る気配がまったくない。

「よろしい、分かり申した」

 忠次も士の心を知る武者であるから、奥平定能の気概を汲んで特に先陣を命じた。

 一隊は木々に身を隠しながら、遂に鳶ヶ巣山砦をはじめとする付城郡へと至った。木々の隙間から間近に見る長篠城には、建物らしい建造物などもはや見当たらず、引き倒された柵や塀の代わりに畳を立てかけている箇所もあり、これで今日まで良く持ち堪えてくれたものだ、あれで指物のひとつも立っていなければ、既に陥落したものと誤解されてもやむを得ない、というほどのれ具合である。

 忠次の耳に、鬨の声が飛び込んできた。先陣を願い出た奥平定能の一隊が、鳶ヶ巣山砦へと襲いかかったものと思われた。これを合図に徳川別働隊は付城郡へ続々と乗り入れはじめた。

 南からの山伝いの攻撃は、甲軍にとって文字どおり奇襲攻撃だった。砦の山側(南側)は押し並べて防備が薄く、この方面からの攻撃を想定していなかったことを窺わせるものであった。武田の諸国牢人衆を束ねる河窪武田信実は、しかし奇襲攻撃を受けながらも、信玄異母弟たる意地を見せて、砦を三度も取り返した。このとき付城郡に残された甲軍は総勢で二千とも三千とも伝わるが、いずれにしても鳶ヶ巣山砦、姥ヶ懐砦、久間山砦、山中砦、君ヶ伏床砦などに分散配置されていた長篠包囲陣は、酒井忠次率いる織田徳川別働隊と比較して劣勢であった。

 各砦に籠もる諸衆は、それでもなんとか敵を押し返そうと、隣の砦と連絡を取り合おうと試みる。

 すると、それまで鳴りを潜めていた長篠籠城衆が突如鬨の声を発しながら野牛門から突出してきた。溜まりに溜まった鬱憤を散じようと、城から押し出してきたのだ。

「味方だ! 味方の後詰だ!」

「武田を追い払え!」

 長篠城の人々は口々に叫びながら別働隊と合流した。他の徳川勢が、砦を棄てて退こうという甲軍を追い回すなか、奥平定能は

「九八郎! 九八郎はおるか! 父が救いに来たぞ」

 と呼ばわりながら単身長篠城と乗り入れていた。九八郎信昌は、その声を聞いてか

「ここにおわす」

 とこたえた。

 ここに奥平父子は、無事対面を果たすこととなった。定能は、戦前と比較して酷くやつれ、無精髭だらけの九八郎信昌の両肩を摑んだ。

「よくぞ堪えてくれた。奥平累代の誇りである」

 九八郎信昌はしかし、頭を振りながらこたえた。

「多くの犠牲を伴いました。誇ることなど出来ません」

 信昌は、この籠城戦で戦死した者、とりわけ重囲を突破し岡崎城へと走り、武田によって磔刑に処された鳥居強右衛門尉すねえもんのじょう勝商かつあきのことを定能に語ったのであった。

 さて付城郡から逃げ散っていく甲軍を追って、落合左平次道次は長篠城近辺を走り回っていた。落合左平次が、その尋常ならざる光景を目にしたのは、寒狭川右岸においてであった。長篠城からよく見える位置に立てられた磔台と、これにはりつけられた侍の遺体は左平次道次を驚かせた。敵を逐うことに躍起になっていた左平次も、さすがにこの光景を目の前に足を止めた。

「これは、如何なる人物でござろう」

 左平次は同じように逃げる甲軍を逐う長篠籠城衆に訊ねると、その者涙ながらにこたえて曰く

「あれは鳥居強右衛門尉という者の遺体である。強右衛門尉は主命を帯びて城を抜け出し、岡崎城へと後詰を請いに走ったものであるが、再び城中に駆け入ろうとして捕らえられた者だ。強右衛門尉が城に向かって後詰は必ず来る、それまで堪えよと叫ばなければ、いまごろ城が落ちていたことは疑いがない」

 ことの経緯を聞いた左平次は思わず

「烈士ではないか!」

 と叫んだ。

 左平次は瞬きもせず、強右衛門尉の無惨な遺体を見上げていた。いまは閉じて見開くことがない瞳を、往時の強右衛門尉はかっと見開き、斯くの如く突き殺されることを覚悟の上で、城に向かって決死の呼びかけをおこなったものに違いなかった。

 左平次は後年、自らの背旗に、このとき目にした強右衛門尉の姿を模したものを使用した。無論左平次は長篠城に向かって決死の呼びかけをおこなったときの強右衛門尉を目にしたわけではなかったが、長篠籠城衆の生き残りからそのときの様子を詳しく聞いたり、自分が記憶する強右衛門尉の遺体の状況を思い出したりしながら、背旗職人に云々しかじかと細かい注文をつけながら背旗の図案を仕上げていった。

 背旗は左平次満足の出来であった。

 決死の覚悟を示すかのように見開かれた眼、への字に固く結ばれた口許。全身くまなく朱塗りにしたのは、満身に忠魂をたぎらせているさまと、この直後に鑓で突かれて血を流す様を象徴する色として、他に適当な色がないと思われたためであった。左平次はひときわ目を引く背旗を負いながら、徳川麾下として幾多の戦場を駆け巡った。

 人から

「この背旗の人物は誰ですか」

 と問われれば、その者に鳥居強右衛門尉の事蹟を語って聞かせた。

 左平次とともに幾たびかの戦役を経た背旗には、いつしか鑓か刀による疵が入り、左平次が敵の侍の頸を掻いたときに浴びた返り血が飛んでシミを作った。

 やがて全ての戦乱は已み、いくさは久しく遠ざかった。落合左平次背旗は、二度と再び戦場を駆け巡ることがなくなった。

 時代が下り、いつしか強右衛門尉は逆磔さかさはりつけになったのだとする俗説が唱えられるようになっていた。それに伴い、背旗の図柄も逆磔であるかのように図説に掲載された時期もあった。諸研究により、これが逆磔ではないと証明されたのは近年のことであり、以上は余談である。

 さてこのようにして長篠城を監視していた甲軍は壊滅した。河窪武田兵庫助信実以下、三枝勘解由、高坂昌澄、五味与三兵衛、那波無理助等は戦死。小山田備中守昌辰は意地を見せて、味方を逐う松平伊忠を討ち取ったが焼け石に水であった。忠次以下別働隊は大いに勝ち鬨を上げ、同時に鳶ヶ巣山砦等に火を放った。

 このとき上がった朦々たる黒煙は、才ノ神に陣取る勝頼本営からもよく見えた。勝頼の背筋に、冷たい汗が流れた。

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