長篠城攻略戦(二)

 大賀弥四郎の謀叛が事前に露顕して目算を狂わせた勝頼であったが、三河国衆とりわけ田峯城の菅沼定忠とその家老城所道寿にとって、足助城陥落以降の甲軍の快進撃は

「武田に靡いたことは誤りではなかった」

 と思わしめるに十分であった。そして同時に、一度は疑った信玄の死は、やはり凡下の惑説に過ぎなかったのだと定忠に思わしめたのであった。

 その田峯城に、勝頼からの軍使が派遣されてきた。軍使は、大野田城に籠もる菅沼定盈さだみつを討伐するので、先鋒をつとめよという勝頼の命令を携えていた。

 定盈といえば、二年前の元亀四年(一五七三)二月、武田信玄によって落とされた野田城城主であった。藪のうちの小城と呼ばれた野田城に拠って、約一箇月甲軍を足止めした定盈であったが、力尽きて開城に至っている。定盈は切腹を申し出たが、信玄は良将殺すに惜しいとして助命、捕虜交換によって徳川陣営へと返したという経緯があった。定盈は甲軍が信濃へ撤退した機を見計らい、野田城を奪還して今日に至っていた。

「定盈もいよいよお終いだな」

 定忠は道寿に言った。

「御許容の儀は無用」

 道寿のひと言に、定忠は

「許容? なにを馬鹿な。もとより族滅の憂き目を見せてくれるつもりだ」

 と発し、分家たる野田菅沼家を討ち滅ぼすに先立って武者震いした。

 定忠は、今現在展開されている甲軍の快進撃を目の当たりにして、信玄の死を信じなくなっていた。信玄が生きている以上、信玄によって助命されたにも関わらず、その隙を衝いて大野田城を奪還した菅沼定盈を、信玄は決して容赦しないだろうということが、定忠には容易に想像できた。信玄は定盈を懲らしめるために、勝頼を差し向けてきたのだと定忠は疑わなかった。

 また定忠は、大賀弥四郎が家康に対して謀叛を企て勝頼に内通したことや、事前にそれが露顕して弥四郎は既に処刑された、ということも知らなかった。定忠にとって田峯城を目指してやってくる勝頼は、定盈討伐の確固たる意志を持って派遣されてきた軍に他ならなかった。まさかそれが、岡崎城という攻撃目標を失い、それでも家康との決戦を求めて、ただなんとなく北三河一帯を漂流した挙げ句、大野田城を新たな攻撃目標に定めた軍だとは、定忠は考えてもみなかったのであった。

 田峯菅沼家の衆二百余名を率いて甲軍に合流した菅沼定忠は、甲軍の精強であることに瞠目した。

 大野田城目指して南下した山県昌景、小笠原信嶺、そして菅沼定忠の一隊は、大野田城から菅沼定盈の一手が落ち延びて遁走しようという姿を見た。城は折から修築中であり、恃むに足りぬとばかりに城を捨てたものであった。甲軍は背後を見せて逃げる定盈の一隊を急襲し、百余名を討ち取る戦果を挙げたが定盈を討ち取ることは出来なかった。

 戦機得たりとみるや一気に歩速を速め、敵に迫る甲軍の精強ぶりは相変わらずであったが、定忠は事前に

「信玄は定盈を許容することは決してなく、彼を討ち取るためにあらゆる手を尽くすであろう」

 と予想していたので、確かに精強ではあったが逃げおおせた定盈をそれ以上逐うこともなく、勝ち鬨を上げて早々にいくさを切り上げた甲軍のやりようが、少し淡泊なものに思われたのであった。

 大野田城を攻め落とした勝頼は軍議を開いた。次なる攻撃目標を定めるためであった。岡崎城攻略、徳川撃滅という目標を持って出陣してきた以上、それと同等の戦略目標を諸将に提示しなければ、先の軍議のように陣払いを言い出す者が現れないともいえなかった。なので勝頼は

「三河吉田城を攻める」

 と言った。

 吉田城は、家康が本拠を置く浜松と、家康嫡男信康が預かる岡崎城のちょうど中間に位置する要衝である。ここの攻略に成功すれば、徳川領は東西に分断され、徳川家中衆が恐慌に陥るであろうことが容易に想像できた。

「異論はあるか」

 勝頼の問いに対し

「帰路を確保しとうございますな」

 と応じた者がいる。山県三郎兵衛尉昌景であった。

「これから吉田城を攻めようというときに、帰り道の話など」

 失笑に紛れ込ませながら言ったのは長坂釣閑斎であった。昌景はしかし、釣閑斎の無礼な物言いにも落ち着いてこたえた。

「聞かれよ。我等岡崎城攻略を目的として出張ってきたものではあるが、残念ながら大賀弥四郎の企ては露顕し、一朝に徳川を討ち滅ぼすということは出来なくなった」

「だからこそ吉田城を落とそうというのだ」

 釣閑斎は昌景の言葉が途切れてもいないのに、語気強くその言葉を遮った。制したのは勝頼であった。

「続けよ」

 勝頼に促されて昌景は続けた。

「上方の情勢に目をやれば、石山本願寺を攻め囲み、当分こちらの方面に人を放つことが出来ないであろうと思われた信長も、高屋城を早々に攻め落とし本日岐阜へ入ったと聞いております。兵馬を休ませれば信長が後詰に押し寄せてくることは疑いがありません。思うに家康とて吉田城の重要性は重々承知しておるでしょう。数千の籠城にも耐えられる城と聞いております。帰路も確保出来ておらぬうちから安易にこれを攻め囲めば、包囲攻城に日数を費やした挙げ句、信長の後詰を背後に受けかねません。危険です。御先代の折には、前に砥石籠城衆、後に村上義清の軍を受け、大敗を喫しました」

 昌景は、今から二十五年も前の天文十九年(一五五〇)十月におこなわれた、砥石崩れの話を持ち出した。

「慎まれよ山県殿。我等は当代の御采配のもと、いくさ場に出張っておるのですぞ! 御先代の折のこととはいえ、負けいくさの凶例を持ち出すなど不謹慎でありましょう」

 跡部大炊助などがそう言えば、今度は

「山県殿はそんなに帰り道のことが気になりますか。帰路なら疾うに確保されてござる。来た道をそのまま帰ればよろしい」

 釣閑斎はまるで馬鹿にしたような発言をした。いよいよ我慢ならぬとばかりにこれに噛みついたのが内藤修理亮昌秀である。

「いい加減に口を慎め釣閑斎。貴殿の如き吏僚が山県殿ほどの弓取に口を差し挟むものではないぞ。来た道をそのまま帰れば良い。貴殿は確かにそう申したな。それがどれほど危険か、思い至らぬか」

「左様。山県殿が危惧なされているのは、既に信長が岐阜に帰還している以上、その後詰がいつ押し寄せてくるかしれないということでござる。来た道をそのまま退いて遠州方面などに逼塞すれば、北三河、信州東濃はがら空きになり申す。退くなら長篠を経て下伊那を目指すしかありません。しかし長篠には長篠城があります。長篠城は、先年敵の手に落ち、今は奥平九八郎が城兵五百余と籠もっております。あらかじめこれを抜いて退路を確保しておかねば、危険でしょう」

 昌秀に賛同したのは小山田左兵衛尉信茂であった。

 最初のうちこそ勝頼の意向を実現させようと反論した大炊助や釣閑斎であったが、みながこぞって昌景の言に賛同したため、その言葉も途切れがちとなった。

 釣閑斎が言ったように、安直に来た道をそのまま帰るような挙を冒した場合、確かに遠州に向かう街道は比較的平坦で往来しやすい道であり、本国甲斐への帰還は容易であろう。しかし往来の利便性を優先して東に逼塞すれば、信州の楯となるのは東濃岩村城に籠もる穐山伯耆守虎繁と、北信海津城の春日弾正忠虎綱だけになってしまうのである。遠州に引っ込めた軍を信濃に回送するとなると、悪路甚だしく時間を空費することにもつながる。兵を退けるなら一直線に信濃を目指すしかない。 

 これはどう考えても昌景の意見にがあった。そのことは頭では理解できる。できるのだが、勝頼は内心秘かに

(なにゆえ余の下知に従わぬか)

 という憤懣を蓄えていた。宿老の意見が理にかなっていることと、それを感情面でも受け容れることが出来る、ということはまた別の問題であった。

「よかろう分かった」

 勝頼は苛立ちを隠しながら、一同に向けてそう発した。これに続く「一同、大儀であった」のひと言で軍議の席を退出するつもりだった諸将に対して勝頼は続けた。。

「長篠城を攻撃目標とする。しかし長篠城攻略は飽くまで撤退のためのいくさである。我等は退くために三河まで出張ってきたものではない。したがって退路を確保する前に、このまま南下して吉田城をひと揉みする」

 勝頼の発言もまた、正論であった。莫大な戦費をかけて出陣してきた以上、それに見合った戦果を求めるのは当然のことであった。吉田城を陥落せしめれば、先述のとおり徳川領は東西に分断されるのであり、早晩滅亡は免れないであろう。信長も後詰を諦めるかもしれない。

 ただ昌景等宿老が押し並べて抱いた不安は、

(それでは吉田城をひと揉みするとして、どの程度の時日を費やすか)

 という点であり、勝頼がそのことについてひと言も言及しなかったことであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る