長篠城攻略戦(一)

 山県三郎兵衛尉昌景は新宮津を出港して海路を急ぎ、三月の下旬には江尻へと帰還していた。昌景はあらかじめ、寄騎よりきである小菅五郎兵衛尉や孕石はらみいし源右衛門尉等に対して、江尻城への参集を命じていた。もし自分が海難事故にでも遭遇して、期日までに江尻に帰城することが出来ない場合であっても、三枝勘解由の下知に従い、期日どおりに行動を起こすよう申し含めておいたものであるが、出陣の前日にようやく帰還した昌景が目にしたのは、自分の命令に従い、過たず参集を終えた精鋭たちの姿であった。

 翌日、昌景率いる山県勢は、遠州、信濃の山岳地帯を西進して、奥三河足助城攻略を命じられていた下伊那の下條信氏、小笠原信嶺等と合流した。足助城主すずき越後守を攻撃するためであった。

 武田方による足助城攻撃がおこなわれる直前、国境の山岳地帯で武田方の軍事行動を察知した徳川方では、これを牽制する目的か、奥平信光が軍勢を率いて信濃国境付近の津具つぐまで進出し、津具城主後藤九左衛門等に攻撃を加えた。主戦場と目されていた足助方面から離れて、油断しきっていた後藤九左衛門等津具城衆は奥平信光に蹂躙され、城主九左衛門を含む多数が討ち取られたという。

 しかし奥平信光の活躍も、足助城包囲軍に及ぼした影響は皆無であったらしく、敗戦を悟った鱸越後守は即時降伏、その身柄は甲府へと護送された。足助城には下條信氏が入って防備を固めている。足助城の陥落を知った周辺の城は続々と自落、浅谷あさがい城主奥瀬道悦、阿須利城主原田弥五平、八桑城主鈴木甚五右衛門、大沼城主木村道顕、田代城主松平近正等は戦わずに城を捨て遁走するか、降伏を申し出たという。勝頼率いる甲軍本隊が到着する以前に、奥三河は既に壊乱の様相を呈していたのであった。


「武田勢襲来。援軍乞う」

 手短にそう記された家康の手紙を携え、徳川の使者は浜松から信長在陣の摂津までを一日で走った。石山本願寺を十重二十重に取り囲む畿内近国約十万の将卒の中を駆け抜けて、徳川の使者は信長に面謁した。

 寺の名を冠してはいるものの、水運が縦横に張り巡らされ、さながら城塞の如きていをなしている石山本願寺を遠巻きに取り囲むばかりで、依然本格的な戦端を開かぬ信長は、勝頼の三河襲来を聞いて深く考え込んだ。尾張に本貫地を持つ佐久間信盛などは、気が気ではないといった様子で

「本願寺は後回しにしてでも、徳川殿後詰を優先すべきです」

 と進言し、これには信長も

「もとよりそのつもりである」

 とこたえたが、本願寺相手に一度振り上げた戈を収めるのは容易ではない。近年にない多勢を擁してはいるものの、安易に撤退すれば後背から痛撃されて全軍壊滅の憂き目を見かねないからであった。

「そのつもりではあるが、目の前のいくさには決着を着けねばなるまい。石山を陥れるか、和睦するか・・・・・・」

「陥れるとなると、いかな十万の将卒を率いる我等とはいえ、こわ攻めすれば戦死傷者数知れず、かつえ殺しに蒸し落とそうにも日数が掛かりすぎては徳川殿への後詰もままなりません。和睦と申しましても、一撃も加えず申し出れば足許を見られるのが関の山でしょうな」

 信盛は徳川への後詰を進言しておきながら、目の前の事態収拾についてなんらの見識も持ちあわせていないものの如く、城攻めは駄目、和睦も出来ないなどと口にしたのであった。

 信長は反対意見ばかり口にして解決策を見出そうとしない信盛に内心非常な怒りを感じつつも、生来の果断をこのときも発揮して

「石山に対しては武威を示しつつ順次包囲を解き、城を打って出て背後を衝こうというやつばらに対しては殿軍これを能く防ぐべし。我等はその隙に堺へと進み、新堀城を陥れる」

 と宣言した。

 新堀城は、この度の石山蹶起に呼応して叛乱した高屋城の支城である。三好康長の属将香西越後守、十河因幡守等が籠城し、守備に就いていたものであるが、石山本願寺や高屋城と比較すれば規模は遥かに小さく籠もる人数も少ないうえに、これを陥落せしめれば高屋城の喉元を扼す要衝でもあった。信長はこれに目をつけたのだ。

 信長はあらかじめ下知したとおり、順々に石山の包囲を解き、城方に追撃を許さず、精鋭を率いて新堀城に急行して敵兵百七十余を討ち取った。

 信長の勝利宣伝を前にした高屋城将三好康長は、

「抵抗能わず」

 とばかりに降伏を申し入れている。信長の見立てが図に当たったわけである。

 信長にとって更に幸運だったのは、このころの北陸方面が奇跡的に平穏だったことであった。但しこれは奇跡などではなく確たる理由があった。

 天正元年(一五七三)九月に朝倉義景を滅ぼして以降、越前は織田家の領するところとなったのだが、隣接する加賀一向一揆の影響を強く受けた越前の国人地侍等一向宗門徒が蹶起して、一揆の猛威が吹き荒れていた。このため信長は柴田修理、前田又左衛門をこの方面に配置しなければならず、織田軍団は畿内と北陸とに分断される状況にあった。

 その越前一向一揆の動きが、一時的にではあるが鈍化した。信長の鋭鋒が摂津に向き、また武田勝頼が三河に進出したことによって、これを機に兵馬を休ませようという目算が一揆側に働いたためであった。

 従前の如く越前一向一揆が暴れ回っておれば、信長はこの方面の軍勢を徳川後詰のために引き抜くということが出来なかったわけであり、勝頼から見れば、自らの出陣が越前一向一揆の鎮静化をもたらすという、皮肉な事態を招いた。

 信長は北陸方面の自軍に問い合わせて、越前一向宗が息切れをおこしている隙を衝き、北陸方面軍までも三河の後詰に召集することを決した。

 信長は四月二十七日に入京して、京畿の仕置を命じた後、翌日には岐阜に帰城している。むろん、徳川に後詰を送り込むためであった。


「信長が岐阜に?」

 勝頼はこの報せをその日のうちに入手していた。それは、勝頼にとって今回の戦役で得た想定外の情報の二つ目であった。

 一つ目こそ、大賀弥四郎刑死の情報であった。勝頼本隊は、秋葉街道青崩峠をこえ、犬居谷、二俣、平山、宇利峠に至り、足助城を陥れた山県昌景率いる別働隊と作手つくでにおいて合流した。作手は、甲軍の先手さきてを岡崎に手引きすべく、大賀弥四郎と落ち合う約束の地点であったかのだが、待てど暮らせど大賀弥四郎が作手に出現することはなかった。それもそのはずで、勝頼がこの地点に到達する僅か十日前に、大賀弥四郎は謀叛が露顕して刑死してしまっていたのだった。

 勝頼は大賀弥四郎の手引きについて、過度の期待をしていなかったとは言い条、その企てが潰えたことについてはやはり落胆を禁じ得なかった。

 勝頼は大賀弥四郎刑死の報を得て、一応撤退するか否かを群臣に諮った。しかしもとより勝頼に撤退の意志はない。かかる企てが事前に破綻することはこの時代、日常茶飯事だったからだ。軍議は、このまま三河攻略を継続する意思統一を図るためのものでしかなかった。なかったのだが、ここに至り内藤修理亮昌秀などは

「目算が外れ申した。出兵の大義はもはやございますまい。撤退を」

 と進言し、これに穴山玄蕃頭や逍遙軒信綱等が同調して、軍議は勝頼にとって意外なほど紛糾した。

「もとより、大賀弥四郎の如き中間ちゅうげんを恃んで兵を起こした我等ではない。出陣の目的は、家康打倒のはず。その目的も達することなく兵を退いては武門の名折れですぞ」

「左様。現に奥三河の諸城は我等の武威に恐れをなして続々と自落致し申した。徳川は瓦解寸前です。信長も摂津に釘付けにされております。このまま作戦を継続すべきでしょう」

 跡部大炊助も長坂釣閑斎も、勝頼の意を汲んで必死に慎重論者を説き伏せ、なんとか作戦の継続が決定されたのであった。

 そこへ持ってきて信長の岐阜帰還である。畿内における軍事行動を終了したばかりで、すぐさま行動を起こすことが出来ないだろうとはいえ、信長が後詰に押し寄せる危険性は、戦前の予想を超えて遥かに高いものとなった。

 しかし一方で、勝頼はこれを好機とも考えた。このたびの戦役は徳川撃滅を意図したものであったが、同時にその先にいる信長との決戦をも視野に入れたものであった。

 勝頼は家康よりも信長の方を脅威と見做していた。したがって国力差が決定的なものになるより前に、打撃を与えなければならないとも考えていた。三河の攻略はそのときのための条件づくりに過ぎなかったが、信長から出張ってくるというのなら、この三河にて徳川もろとも屠ってくれようと勝頼は考えたのだ。

 信長の岐阜帰還を聞いて驚いた勝頼であったが、同時に昂ぶりを感じていた。三河のいずれかの地において織田徳川両氏に痛撃を加え、兵を一挙に濃尾へ進める自らの姿を夢想した。そうなれば勝頼は、亡父の遺言を果たすとともに海内にその武名を轟かすこととなり、誰ひとりとして――たとえ口喧しい宿老親類衆等とて――自らの経営に口を差し挟む者はなくなるだろうと思われたのであった。

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