婚儀(一)

 勝頼初陣の陣中、信玄は一通の書状を手に深く考え込んでいた。書状は、駿河滞在中の穴山家家老佐野主税助ちからのすけから回送されてきた書状であった。

 これより少し前、信玄は駿河今川家との取次を務める穴山信君に命じて、佐野主税助に駿河を訪問させていた。名目上は同盟国に対する挨拶の使者として派遣したものであり、人々の往来は同盟国間では随時おこなわれていたものであったから、甲駿間においては特段珍しい行為でもなかったのだが、この時ばかりは少し事情が違った。

 信玄は遠州における事態急変の予兆を嗅ぎ取って、その方面の情報を収集させる目的で佐野主税助を駿河へと派遣したのだ。

 桶狭間における凶事以降、義元後継者氏真は事態悪化を拱手傍観して手もなく滅亡に至ったと思われがちであるが、実際は必死に国内の手当に奔走していた。しかし義元討死という事態に直面した今川家の求心力低下はどうにも否定のしようがなく、三河の松平蔵人が徳川家康を名乗り、今川家からの独立を宣言するに至る。

 氏真が家康を早期に討伐できなかったことで、遠江諸豪族の間にも動揺が伝播していっただろうことは想像に難くない。徳川今川いずれにも属することなく独立を保つことが出来るほど戦国の世は甘いものではなかった。

 去就を迷うこれら遠江諸豪族に対し、手紙を書き送ったのが信玄であった。その内容はというと


そちらも境目の国衆として去就に迷うことはあるだろうが、その苦衷を知らぬ信玄ではない。

困ったことがあればなんでも相談して欲しい。


 という、一見当たり障りのないものであった。

 ただ、読む者が読めば、その違和感は一目瞭然であった。

 信玄はその文面で、境目の国衆が去就に迷っていることを咎め立てするどころか、理解を示すような態度を取っている。本来であれば今川家との同盟者たる立場を前面に押し出して、和睦仲介を進める内容の手紙を書き送るはずであるが、文中には今川家のいの字も記されてはいなかった。

 更に、書面の末尾に

「困ったことがあればなんでも相談して欲しい」

 と追記したことは、遠州諸豪族にとっては殺し文句であった。

 彼等にとって武田の動向は今川家への去就を判断する上で無視できないものであった。もし武田が、飽くまで今川家を支援する立場を採るというのであれば、国境を接する信濃から武田による軍事的干渉を受け、叛乱の企てが早期に潰えることは疑いないところであった。

 翻って武田が不干渉方針を採るというのであれば、遠州諸豪族は自力で自らの望む状況を作り出すことすら不可能ではなかった。今川の勝利を望めば今川に、徳川の勝利を望めば徳川に付けば良いだけの話であった。

 そこへ持ってきて

「困ったことがあればなんでも相談して欲しい」

 という信玄書上である。

 無論そこまで踏み込んだ内容ではなかったが、武田が軍事的に支援してくれるのではないかと深読みする者が現れたとしても不思議ではない文面であった。信玄とて、そのような効果を見込んでかかる書状を送付したのだ。

 案の定、公然と今川に楯突く国衆が出現した。引間城主飯尾いのお豊前守連龍つらたつが今川家に叛旗を翻したのだ。

 この叛乱は遠州全体に瞬く間に広がった。世にいう遠州忩劇の勃発である。

 信玄は氏真が叛乱に対し如何に対処するかを見極める目的で佐野主税助を駿河へと派遣していたのだ。

 ただ今川家としてもこのような事態をまったく察知していなかったわけではなく、武田家から遠州諸豪族に宛てて、内容不明の書状が届けられたらしいという情報は伝わっていたし、このような血なまぐさい折節、挨拶などと称して平然と駿府を訪問して居座る佐野主税助の動向を怪しむ駿河衆は実際多かった。

 今川家の対武田家感情は急速に悪化しつつあったし、信玄はいまやそのことを恐れはしなかった。

 諏方四郎勝頼初手柄に沸き立つ上野こうずけ遠征軍中にありながら、信玄の思考力のほとんどは駿遠方面の情報分析のために割かれていた。信玄の頭からは、今川と干戈を交えたとして、駿河国衆のうち誰某は武田に味方し、誰某は今川に忠節を尽くすだろう、という考えが離れなかったのであった。

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