大賀弥四郎事件(三)
密議を凝らすうちに、次第に謀叛の具体的な方途がまとまっていった。当時、家康は遠州浜松に本拠を構えており、岡崎には嫡男信康が在城していた。これは徳川家中衆の多くが本貫地を有している三河支配を任せることで、後継者信康に順次権力を移譲する意図と、対武田の前線たる浜松に家康自ら在城することで事態急変に備える意図による措置であった。
弥四郎は最初から浜松などに興味はなかった。もし浜松に武田を手引きしたとしても、徳川家中衆は三河に退却して抵抗を継続するであろうことが容易に想像できたからである。もし武田を引き入れるなら、岡崎をおいて他にない。これにより三河に本貫地を有する徳川家中衆の殆どが武田に靡くと考えられたからであった。
「岡崎に武田を手引きするというが、そう簡単にいくかな」
小谷甚左右衛門がそのように問うと、弥四郎は自信ありげにこたえた。
「無論抜かりはない。俺は家康様が岡崎に入城する際、軍列の先頭に立ち開門を告げることを通例としている。そのことはお前もよく知っているだろう。家康様一行を装った武田の軍列の先頭に俺が立ち、開門を告げれば誰も疑うことなく岡崎の城門を開くであろう。そのうえで武田勢を岡崎に突入させ、信康様を討ち取ってしまえば、この期に及んで抵抗を続けようという者はよもやおるまい」
弥四郎は浜松の仕置についてひと言も言及しなかった。なので倉地平左衛門は
「浜松は如何致す。家康様が在城したままだぞ」
と言うと、弥四郎は
「三河を失った徳川の家中衆が、家康様ひとり御存命だからとて付き従う道理があろうか」
とこたえた。
浜松在城の家康周辺も、三河に本貫地を有している点では岡崎衆と立場は変わらなかった。岡崎が武田の手に落ちたと聞けば、これらの人々は腰が砕けて浜松から逃げ散るであろうことが、弥四郎のひと言で平左衛門にも一瞬で理解できたのである。
「いいい、家康様は、いい、いくさ上手だで」
それまで黙っていた山田八蔵が、突然口を開いた。これまで密議の席に、殆ど呼ばれることがなかった八蔵が唐突に口を開いたので、他の三人は呆気にとられたような表情を示した。反応したのは弥四郎であった。
「そのようなことは百も承知だ。しかし、いくさは一人でおこなうものでもないぞ。そのために岡崎に武田を引き込もうと言っているのだ」
お前は黙っていろ、とでも言いたげな弥四郎である。
圧倒的に優勢な敵方に対し、家康が決定的な敗北を被ることなく今日まで命脈を保ってきた所以を知らぬ弥四郎ではない。今更八蔵に指摘されるまでもなく、家康が実直な指揮で前線の崩壊を食い止めていることを、弥四郎は中間の身分でありながら良く理解しているつもりであった。
それだけに弥四郎は、このたびの謀叛の企みで、家康から兵馬の権を事実上奪い知ってしまうことを心がけた。それが、徳川家中衆の殆どが本貫地を有している三河支配の拠点岡崎に、武田を引き入れるという策だったわけである。
(八蔵という男は、そんなことも理解できないのか)
弥四郎は、平左衛門を得心させるために八蔵を仲間に引き入れたことを後悔しはじめていた。仲間が少ないことに懸念を表明した平左衛門の同意を得ようと、企みを知る者として八蔵の名前を挙げはしたが、こうまでも計画を理解できないとなると、単に枯れ木も山の賑わいなどと笑って済ませられるものではないと思うようになっていた。
「帰って良いぞ」
弥四郎は八蔵に向かって冷たく言い放った。
「途中、眠っていたのであろう。帰って良いぞ」
弥四郎は続けた。
「ね、眠ってなんぞ、おおお、おらん」
八蔵はそう返したが、弥四郎をはじめ甚左右衛門、平左衛門から注がれる冷え切った視線に気付いたものか、いたたまれなくなったように席を立った。
その晩、三人は大賀弥四郎邸において、丑の刻の終わり(午前三時ころ)まで密議を続けたのであった。
(父の三回忌法要を前に、瑞兆ではなかろうか)
勝頼は大賀弥四郎から送られてきた手紙に見入っていた。
近年思うところがあり、家康に対して謀叛を決意しました。これを好機と思し召すならば、一軍を率いて
飽くまで家康に忠節を誓うという者があったとしても、我が同心衆を矢作川河岸に配置しておけば捕縛することが出来ます。
家康に付き随う者はいなくなり、浜松籠城もかなわなくなった家康は船で尾張か伊勢に逃げようとするに違いありません。その折を見計らって船着場に攻め寄せれば、家康信康父子の頸は根石原に晒されることになるに相違ありません。
手紙にはそのようなことが記されてあった。
家康が、当時武田方だった長篠城に攻め寄せ、後詰を試みた甲軍が、連携を欠いてはじめて徳川勢に敗れたのは、勝頼が家督を相続した直後、二年前の天正元年(一五七三)九月のことであった。
勝頼はこのときのことを思い起こすと、はらわたが煮えくりかえるような怒りの感情を新たにした。武田に靡いた菅沼右近助正貞をはじめとする長篠菅沼家一門のみならず、下伊那は松尾城主小笠原信嶺、室賀満正、吉田氏等甲信の国衆から在番衆をみつくろって配置していた長篠城が、敵の重囲に陥ったのだ。亡父の遺言を楯にとって、これに後詰の軍勢を送り込むことに反対した連中のことを、勝頼は心の中でどうしても許すことができなかった。
室賀満正の二人の娘壱叶、三かりなどは、籠城する父の身を心配して生島足島神社にその無事を祈る願文を捧げたほどであった。分国の人々が在番衆の救出を願っていた。
「如何に父上の御遺言とは申せ、囲まれた城の後詰を怠れば余は人々の支持を失うであろう」
勝頼は決然言い放って、長篠城後詰と家康撃滅を意図して出陣を命じた経緯があった。山県も馬場も、そして内藤修理亮昌秀も、みなこぞって派兵に反対した。勝頼は、長篠城後詰に反対したこれら宿老の存在が勝頼自身の出馬を妨げて、各隊の連携を欠いたことにより、結果的に長篠城の失陥と遠州森における敗北につながったと今も考えていた。
勝頼にとってなお腹立たたしかったことは、父信玄死後の派兵で被った敗北を、自己の責任として負わなければならないという点であった。宿老たちは在番衆を見捨ててでも城の後詰を押し止めようとしたし、その結果として連携を欠き、遠州森にて家康相手に敗北を喫したその責を、何故自分が背負わねばならなかったのだろう。
「余の死後三年は喪を秘して、内治に専念せよ」
亡父のこの遺言に間違いがあったのではないか。敵が攻め寄せてきたら領内に引き込んで討ち取れと父は言ったが、それではあの時の家康のように、前線の城を舐めるように蚕食し、決して領内深く立ち入ろうとしない敵に対して、父はどうしろと具体的になにか言い遺しただろうか。早々に和議を結んで城を明け渡し、城兵を助命することは簡単だった。甲信の在番衆はそれでも良いだろう。だが長篠を本貫地とする長篠菅沼家一門はどうなるのだ。
そのことを考えると、結果的に敗北に終わったとはいえ、あの時の戦いがまったく無駄で、亡父の遺言に反する蛮行だったとは思えない勝頼なのであった。
そして勝頼は今、まさにその亡父の遺言の一つから解放されようとしていた。信玄の三回忌法要の時期と、そして謀叛の企てを記して大賀弥四郎からの手紙が到来した時期とが一致したのである。
(もはやこのたびの出兵に異議を唱える者はあるまい)
勝頼はひそかにそのように考えていた。勝頼は父の三回忌法要の執行について、快川紹喜と跡部大炊助に準備を命じると共に、高野山成慶院に山県三郎兵衛尉昌景を派遣した後、自らは三河攻めの具体的な作戦について検討を開始したのであった。
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