湖畔の巨城(二)
まずその最上階。狭間と呼ばれる一種の窓にはその縁に黒漆が塗られ、これが各階の白壁に映えて喩えようもない美しさを湛えていたとフロイスはいう。最上階は三間(約五・五メートル)四方で、この座敷の内壁には押し並べて金箔が張られていた。また柱までが金箔張りであったと伝えられている。その座敷の壁画は当代屈指の絵師狩野永徳に描かせた三皇五帝(唐国の伝説上の皇或いは帝)、孔門十哲(孔子の優れた弟子十名)商山四皓(中国秦末、国乱を避けて陝西省商山に入った、東園公・綺里季・夏黄公・
その下段、二重目は広さ四間(約七・二メートル)ほどの八角堂であったという。「安土日記」においては二重目にある柱を外柱、内柱に区別して記録している。この内柱はやはり金箔張り、外柱は朱塗りであった。「安土日記」は主に城内の様子を記録したものであるから、二重目八角堂内に内柱と外柱があったということだろうか。ただ二重目の縁には
三重目は壁画を省略されており、南北の破風に四畳半の御座敷があった。
四重目からぐっと広くなる。ここには少なくとも十二間(約二十二メート)四方の座敷が三つあった。屋内であるにも関わらず、なんとそれぞれの間に岩が置かれ松、竹などが活けられていたという。それぞれを「岩之間」「竹之間」などと呼称した。ここ四重目には他に、少なくとも八畳敷の間が三つあった。このうちの一つも屋内でありながら庭園を備えており、「御鷹之間」と称した。他二つの八畳敷にはやはり壁画があり、東八畳敷には鳳凰、もう一つ八畳敷には、頴水の流れに耳を洗う許由を見るや、
「貴人が耳を洗った水を飲ませることは出来ない」
と言って牛を連れ帰った「荘子」逍遥遊の一場面を描いた画がそれぞれ描かれていた。
五重目も広大である。二十四畳敷、二十畳敷が各一、十二畳敷が三、八畳敷が二、四畳敷が一ある。二十四畳敷は物置にしていたというから、伝来の家宝等を収蔵していたものであろうか。各部屋には、ろとうびんなる仙人が杖を投げ捨てるの図、西王母、馬が牧場に遊ぶの図などの壁画があったという。
六重目。ここには信長書斎があった。寺と梵鐘を遠景に見る水墨画が壁に描かれ盆栽が置かれていたというから、その落ち着いた雰囲気が目に浮かぶようである。信長はこの書斎で、各国各勢力の動向や執るべき政策について思索を巡らせたのであろう。六重目には二十六畳敷のものを含めて納戸が七つ、その他大小様々な部屋が実に十七もあった。それぞれ雉の子、鳩、
この下七重目には先述のとおり金の灯爐が吊られていた。
柱の数、実に二百四本、本柱の長さが八間(約十五・五メートル)、本柱の太さ一尺五寸(約四十五センチメートル)四方、六尺(約百八十二センチメートル)四方、これらに支えられた天主の高さ十六間(約三十二メートル)。狭間の戸の数は六十あまり。どれも鉄枠に黒漆塗りを施す壮麗さを誇るものであった。太田牛一は主にこういった内部の意匠について詳述しており、一方のフロイスは、安土城天主の外観についても陳べている。使用されている屋根瓦の意匠、狭間の縁に塗られた黒漆、紅や青といった豊かな色彩を施された安土城天主を、彼は
「気品においてヨーロッパの城に優れ、壮大な建築物である」
と評している。
後に諸侯がこれを真似て天守閣を備えた城郭を構えるのであるが、これらは主に倉庫として使用されたものであって、かかる楼閣に住まう者はいなかった。しかし安土城天主は信長の居住空間として使用され、これは前後に例のないことであった。
壮麗を極める天主直下には帝の御殿すなわち清涼殿に酷似する建築物があったという。これを以て信長は、安土城に天子の行幸を得ようと企てていたのではないかと推測されている。大手からこの御殿に伸びる幅三間(約六メートル)、長さ百間(約百八十メートル)の道沿いには鉄炮狭間や櫓など、防御施設が備えられていた形跡はなく、ほぼ直線であった。防御を念頭に置いて普請したものであれば有り得ない構造であるが、
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