湖畔の巨城(三)

 大手から御殿或いは天主に至るこの道は、その直下に立つまでもなく遠目にも一目瞭然の存在感を放っており、勝頼と同席して透破衆から大手道についての報告に耳を傾けていた典厩信豊などは

「三間幅の大手道から本丸を見通すことが出来るなど、信長は築城の術を心得ておらん」

 と寧ろこれを揶揄した。

 無論、都より遠国にある武田の諸将に

「天子を居城にお迎えし饗応する」

 などという発想そのものがあろうはずもない。彼等にとって城といえば、すなわち兵を籠めていくさに備えるための施設以外のなにものでもなかった。このような発想なので信豊は続けて

「これは、織田領への突破口を開くことさえ出来れば、安土城とやらを陥れるのは存外容易いかもしれませんな」

 と言ったのであるが、信豊とて本気で近江にまで押し寄せることを意図してかかる発言をしたものでもない。信豊には透破からの報告を聞いた勝頼が、斯くの如き巨城を築くことが出来る信長との隔絶した国力差を痛感して黙り込んでしまったもののように見えた。なのでこれを励まそうとして、殊更強気な発言に及んだものであった。しかし勝頼が口にした存念は少し違うものであった。勝頼は壮麗な安土城の様子になどひと言も言及せず言った。

「今、そなたは安土城の大手道を指して信長は築城の術を心得ておらんと言ったが、日本国中の諸侯のうちで信長の住まう安土の城を攻め囲むことが出来る者が一人としてあろうか。思うに信長は安土城の防備を疎かにしても、美濃、尾張その他領国が外郭としてある限り、全く以て問題ないと考えたのであろう。まことそのとおりで、我等はそういった外郭すら未だに抜けないでいる。そのような我等を相手に、信長がなんで居城の防備を殊更固める必要があろうか。このたび北条と手切するにあたり、余は実は屋形を他へと移せんものか秘かに思案していた。これは甲斐と境目を接する北条が府中に雪崩れ込んでくることに備えるためである。亡父信玄は在世中、本拠をこの府第に構え、終生他に移ることがなかった。これとて府第の外郭たる信濃、上州、駿河などを誰が抜けようかという父の存念によるものだが、北条と手切に及んだ今、それも危うい。屋形を移す先は皆目見当も付かぬ状況であるので、さしあたり要害城の普請を強化して、北条の攻撃に備えることとしよう。まこと、防備の手薄い城に枕を高くして眠ることが出来る信長が羨ましい限りだ」

 勝頼はこのように言うと、早速要害城の普請強化を命じたのであった。このころ、勝頼は要害城のみならず分国特に上州、駿東方面において盛んに城普請をおこなっていた。

 甲相手切ののち、春日信達を駿東に配したことは先に陳べた。これは駿豆国境の沼津に城を新築して、彼をそれへと詰めさせるための措置であった。


 氏政は七月三日に沼津城築城を察知した。武田の人々が縄や材木を携え、鍬を以て台地を削平する様を遠目に見たのである。最初は小人数、小規模な監視小屋かと思われた作事であったが、削平は数段に及び立ち働く人の数も日に日に増えていく。氏政が考えていた以上の規模の城が築かれていることは明らかであった。いよいよ武田との手切は避けられないと考えた氏政は早速諸将を召集して今後の対応について協議を開始した。氏政は軍議に先立って

「昨年の越後錯乱に際し、余は勝頼に弟三郎景虎救出を要請したが、勝頼はその約束を反故にして喜平次を討ち滅ぼすどころか三郎の身柄を救うこともなく兵を引いた。ために三郎景虎は亡びたものであるが、いくさの勝敗は武門の常であるからこれもひとえに三郎の武運拙かったものと諦め、勝頼の不義については堪忍してやっていたところ、武田は詫び言のひとつも寄越すことなく、それどころか駿東沼津に城を築く暴挙に及ぶ始末である。看過できるものではなく手切は免れがたい。各将思うところあれば陳べよ」 

 と促した。北条方諸将は俄に緊張した。精強な武田の軍兵の威力を恐れたのだ。信玄が駿河に討ち入って甲駿相三国同盟が瓦解した際、北条氏康は信玄との手切に及んで干戈を交えた。このとき信玄は二万の兵を以て関東に乱入して鉢形や玉縄など北条方諸城を攻め囲んだ。信玄は勢いを保ったまま小田原城を囲み、その威力を十分に見せつけて帰国の途に就こうとしたとき、北条氏照、綱成等諸将が甲軍の後背を衝くべく襲い掛かった。この戦いで北条方は西上野箕輪城代にして武田家譜代淺利信種を鉄炮にて撃ち落とす軍功を挙げたが、志田峠から取って返して横入れした山県三郎兵衛尉昌景の軍勢に散々に叩かれ戦死者多数の手痛い敗北を喫したのである。三増峠においておこなわれたこの戦いは永禄十二年(一五六九)十月のことであった。

 大敗もさることながら、豺狼の如き武田の軍兵が、農村の食糧はおろか領内の草という草、樹木という樹木、民家の板塀や橋梁に至るまで根こそぎ奪い去っていった様を間近に見た北条方諸将が、信玄亡き今とはいえ武田との戦いに緊張の面持ちを示したことはやむを得ないことである。そこで氏政弟氏照は彼等の内心を代弁するかのように

「武田の兵卒は強く、勝頼の武勇も隠れなきもの。屋形様には勝算はおありか」

 と問うと、氏政は言った。

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