甲相入魂(二)

 天正四年(一五七六)は、「三年秘喪」の明ける年であった。勝頼は新生武田軍団を率いて三遠方面への反攻を企図し、内外にこれを喧伝している。これは半ばまで本気だったらしく、海津城代春日弾正忠虎綱を伊那方面に配置換えして東海方面における軍事行動に従事させようとしていた形跡が認められるからである。

 しかし建軍半年、幾たびも戦陣を踏まぬ素人軍団が、度重なる軍役状にて武道の鍛錬を推奨し、鉄炮弾薬の備蓄を命じたからとて俄に精強になるものでもなく、しまいに勝頼は

筮竹ぜいちくにて占った結果、この時期の出師は凶と出た」

 と述べて出陣を中止してしまう。

 占いの結果とは言い条、勝頼は昨年春の大賀弥四郎謀叛を起点とする一連の軍事行動と、本年の情勢とが妙に符合することに不安を感じて出陣を取りやめたのであった。即ち、信玄本葬の執行後に出陣するという経過が、長篠戦役に至る昨年の軍事行動と符合することを不吉だと考えたのである。

 ただ単に不吉だと考えるだけなら強いてそのような想念を振り払う勝頼であり、占いなどに過度に囚われるほど頭の固い人物でもなかったが、勝頼を殊の外不安にさせたのが兵の練度のことであった。定期的に寄親の許に参集させ、鍛錬の成果を披露させているが、かかる取り組みもたった一度の実戦にまさることがないと知らぬ勝頼ではない。しかし人材は得がたく、しかも一度失ってしまえば二度と帰って来ないものであることを、勝頼は長篠敗戦によって嫌というほど学んだ直後であった。ようやく萌芽した新生武田軍団を、不用意に戦場に投入してまたぞろ失うというわけにはいかなかった。勝頼はその成長を、軍役衆の自主的な鍛錬に任せて辛抱強く待たねばならなかった。


「先主本葬にあたり、剃髪のお許しを頂きとうございます」

 勝頼は春日弾正よりそのような申し出を受けていた。

 剃髪と聞いて勝頼は、春日弾正が隠居を言い出すのではないかと気が気ではなかった。そう言いだしたら、どのように押し止めようかということが頭の中を駆け巡った。

「剃髪とな。信達のぶさとに家督を譲って隠居するということか」

 勝頼は不安を隠すことなく疑問をぶつけた。

「信達に家督を? 笑えぬ冗談です。あれは、これまでそれがしや死んだ昌澄に甘えてきたのでまだまだ一端いっぱしの侍とは呼べません。それがしの隠居は、あれに今少し心得を叩き込んでからです。それがしが剃髪を願い出た所以はそこにあるのではなく、元来先主より受けた御厚恩に報いるには、れ御逝去に伴い追腹おいばら切って冥府へ御供おともつかまつるべきところ、御家興亡の一戦にてこれを限りの死力を尽くして戦い、泉下に御報告、以て御恩顧に報いるべし、これぞ先主の思し召しに適うおこないなりと思い定めておりました。然るにそれがし今日までそのような機会にも恵まれず北信に逼塞する身であり、未だ御恩を返さぬ身なればこそ、せめて髪を落とし染衣ぜんえを着し、先主の魂魄を弔いたいと考えて決意したことです。どうか、お許し給わりたい」

「重ねて問うが、隠居は考えておらんのだな」

「無論」

 勝頼は、人材が不足している折節、隠居を伴わぬことを前提として春日弾正に剃髪を許した。

 春日弾正は特に願い出て、がん(棺)に納めるべき信玄遺骸を塗籠ぬりごめの壺中から搬出する作業に従事した。他には跡部大炊助、同昌忠がこれに従事した。三人が壺を開封すると、もの言わぬ武田信玄が三年ぶりに彼等三人の目の前に現れた。

 紺糸縅二枚胴具足こんいとおどしにまいどうぐそく三鍬形みつくわがた立物たてものを立てた錆地塗六十二間星兜さびぢぬりろくじゅうにけんほしかぶとを着するその姿は、采配ひとつで万を越える軍役衆を手足の如く操ったあのときのままの姿であった。

「御屋形様!」

 春日弾正はこの時ばかりは信玄をそのように呼んだ。重臣たる自分が先代信玄をそのように呼ぶことによって新主勝頼を軽んじる風潮が醸成されてはいけないと、亡き信玄に対し屋形号を使用することを意図的に避けてきた虎綱も、往年の武威を湛えて姿を顕した信玄遺骸を前に思わず御屋形様と呼んでしまったのである。同時に、両眼からは押し止めようもなく涙が溢れてきた。

 石和の大百姓春日大隅の家に生まれた春日源五郎(後の春日虎綱)は、当代の武士が当然身に着けている文字の読み書き、或いは計算という素養を殆ど身に着けてはいなかった。

 春日大隅は源五郎が幼少のうちに亡くなり、源五郎が十六に達したころ、姉婿と源五郎との間で田地を巡り公事くじ(訴訟)がおこなわれた。決破けっぱに及び、源五郎の敗訴が宣告された。死に別れた父が自分のために遺してくれた土地を失うことになって源五郎は肩を落としながら府第を出ようとした。公事方奉行はその源五郎を呼び止めた。

「屋敷には還らず、このまま御家に仕えよとの御屋形様の御諚」

 奉行の言葉に源五郎は耳を疑った。

 源五郎は晴信近習として出仕するようになった。周りには当然のように文字を操る武士の子弟。いずれも自分とさほど年の変わらない者ばかりである。なんとかして簡単な文字の読み書きは出来るようになったものの、幼いころより書に親しんできた者と比較すればその差は歴然であった。そのために源五郎は、周囲からことあるごとに馬鹿にされ軽んじられた。

 晴信はその源五郎に言った。

「余は文字の読み書きに劣るからとて、その者を愚か者とは思わぬ。もしそのような者であっても、一日に一つ、智者の話に耳を傾け、よく記憶しておき、それを一年間続ければ三百六十の智者の話に耳を傾け記憶したということになる。その者はその分だけ賢くなったと評すべきであろう。読み書きの利く者は、あたらそれが出来るために、文字に頼って話を記憶しておくということを怠りがちだ。そなたが文盲で、他の者より軽んじられていることを知らぬ余ではない。しかし真の智者は、文字の読み書きが出来るか出来ないかに関わらず、智者たることを常に心懸けそのように振る舞うものだ」

 その日から源五郎は、家中における歴戦の武者から武道の手ほどきを受けるだけではなく、戦場における作法や心構えについて教えを請うようになった。稽古場で、相手に向かって打ち掛かり叩きのめされて青あざだらけになりながら、稽古が済めば痛みを隠していくさ場での体験談を相手にせがんだ。夜になれば晴信が語る夜話に耳を傾けた。源五郎は一日に一つではなく、二つも三つも武辺の話に聞き入り、これを記憶した。

 この鍛錬の日々こそが春日源五郎の青春だったのであり、その後ろには晴信が常にどっしりと構え、源五郎を見守っていた。

 そんな春日弾正にとって武田信玄は、ある意味親以上の存在であるといえた。

 壺の開封に立ち会い合掌する人々は、僧形の春日弾正が文字どおり号泣しながら信玄遺骸を運び出し、龕に移す姿を見ながらもらい泣きをする者が数多あまたあった。


 信玄本葬は、天正四年四月十六日辰の正刻から恵林寺えりんじ住職快川紹喜かいせんしょうきを導師として執行された。喪主勝頼は龕を曳く綱を肩に掛け、その前を逍遙軒信綱、穴山信君が担ぎ、後は典厩信豊、左衛門佐さえもんのすけ信堯がこれを受け持って、葬列は府第を出棺した。昨年執行された三回忌法要においては龕は空虚からであったが、今回は確かに信玄遺骸を納めて運び出された。

 その龕の列に続き、仁科五郎盛信が信玄御影みえい(肖像画)、葛山十郎信貞が位牌、小山田信茂が御剣をそれぞれ推戴して葬列の中心をなしていた。

 春日弾正に倣い剃髪した侍数百名、その他もまた数百名がこれに扈従こしょうし、武田家が庇護を加えた禅宗各派千余に及ぶ僧が鼓鈸くはつを鳴らしながら盛大に読経して葬列を歩いた。葬列が行く本道には白絹が敷かれ、金燭が等距離ごとに置かれた。

 思えば天分弘治のころ、領内では天候不順と飢饉が打ち続き、疫病が蔓延した。ただでさえ貧しかった人々は生きるか死ぬか、ぎりぎりの生活を強いられていた。信玄はこれらの人々を外征に駆り出し、これによって甲斐は目に見えて豊かになっていったという。甲斐の領民にとっても、これまで伏されていた信玄の死は悲嘆を以て受け止められた。沿道では貴賤を問わず、涙を流しながらこの葬列を府中岩窪まで見送ったと伝えられている。

 導師快川和尚は松明を手に取り龕に火を掛けた。炎が立ち上がり、千を超える僧の読経がいっそう高まる。

 烏帽子えぼし色衣しきえ姿の勝頼は信玄の遺骸を納めた龕に火が掛けられ、炎の立ち上がる様を見ながら秘かに亡父信玄の呪縛がこれを機に解けること願っていた。外交、内治もとにやらなければならないことは山積していた。春日弾正が献策した、北条氏政との同盟強化もまた課題の一つであった。

 このたびの長篠敗戦と信玄本葬の執行を聞いて、亡父遺言中において

「氏政は必ず裏切る」

 と評されたあの男は如何に身を振るであろうか。勝頼は胸の前で合掌し、偉大すぎた亡父の冥福を祈りながら、今後のことについて必死に算段を巡らせていたのであった。

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