甲相入魂(一)

「御屋形様御帰還」

 旗本衆の声が躑躅ヶ崎館に響き渡ったのは六月一日のことであった。長篠戦役後、高遠に在城して仕置しおきに当たっていた勝頼が帰還したのである。本主殿にて親類一同の出迎えを受けた勝頼は、その筆頭に座して恭しく手を突き

「御屋形様におかれましては御戦勝を重ね御機嫌麗しう」

 と口上を述べる武王丸たけおうまるの姿を見て密かに安堵していた。勝頼は上座にあって武王丸に対し、

「体調を崩しておったそうだな。薬は飲んだか」

 と相好を崩すと、武王丸は

「御父上のお言い付けを守り、毎夜飲みました」

 とこたえた。

「そうか。飲んだか。監物の薬は苦かったであろう」

 その言葉に、帰還間もない一同の緊張がほぐれた。

 ようやく甲斐武田家の中枢である府第に帰還し、体調を崩していたという武王丸の様子を確かめることが出来たとはいえ、勝頼は今回の敗戦に伴う仕置について内心忸怩たる思いを禁じ得なかった。

 即ち、戦死した山県三郎兵衛尉昌景の後任となるべき駿河江尻城代のことである。勝頼は穴山玄蕃頭信君をその後任として充てることとした。無論これは、穴山家が累代甲斐河内郡を統治して、駿河今川家とつながりの深い家柄だったからである。柱石山県昌景亡き今、徳川とぶつかり合う前線基地となりつつあった駿河を任せるには、その子源四郎昌満は若年に過ぎた。それでも三枝勘解由が存命であれば昌満の補佐役としてこれを付し、江尻城を任せることも可能だっただろうが、三枝もまた鳶ヶ巣山砦を襲った奇襲部隊により討ち取られてしまったのであった。

 勝頼は右翼の馬場隊や土屋隊、真田兄弟等の後背に構え、これら前衛部隊を支えるべき信君が、敵とまともに干戈を交えることなく撤退したことを許すつもりはなかった。春日弾正の献言を得るまでもなく、戦場にて敵前逃亡同然に振る舞った挙げ句、本陣まで馬で乗り付け旗本諸衆の眼前で勝頼を面罵した穴山信君を処断したい気持は春日弾正などよりも寧ろ強かった。しかし戦後処理に当たる過程で、勝頼はこの戦いで人材が払底したことを否応なく思い知らされた。気に入らないからとて信君を成敗するというわけにはいかない状況であった。それどころか、その駿河への影響力に期待して江尻城代を任せなければならなくなってしまったことに、忸怩たる思いを禁じ得なかったのである。

 危機に陥っていたのは岩村城だけではなかった。東海方面では三河諸城を落とした家康が遠州小山城に押し寄せており、この方面における手当のためには気に入らなくても信君の力を借りねばならなかった。

 同時期に、東濃と遠州が危機に陥るなか、勝頼は岩村城と小山城を天秤に掛けねばならず、優先して後詰すべきと判断したのは小山城であった。

 小山城は遠州灘沿岸部に位置する平城であり、遠州支配の拠点だった高天神城を東から押さえる支城であった。家康は高天神城を飛び越えて、一気に小山城に押し寄せたのである。もしこれが陥落すれば、支援を失った高天神城は敵中に孤立し自動的に陥落することになるだろう。一挙に二城失うと考えただけでも、小山城後詰の優先度は高かった。

 それに岩村城を攻め囲んでいるのは武田家より遙かに優勢な織田勢であり、主力を撃砕された武田がいまの戦力で織田勢を相手にすることは現実的ではなかった。それが証拠に、勝頼は小山城後詰のために急遽一万三千もの兵力を揃えはしたが、歩速ほそくはばらばら、具足の身に着け方もろくに知らず、馬之衆でありながら口取りしながら行軍する練度と士気の低さを徳川方にも看破されるほど、武田軍はがたがたであった。これでは織田勢どころか、遥かに小勢の徳川を相手に戦うことすら覚束ない。

 ただ徳川方も、このように往時の武田勢とはかけ離れた弱体の敵勢を目の前に置いても、これを侮るどころか寧ろ長篠戦役において二度と立ち直れないほどの打撃を与えたにもかかわらず、ほどなくしてこれだけの軍勢を調えて出現した勝頼の手腕に深く感じ入ったという。家康は勝頼との戦いを避けて軍を下げ、勝頼は小山城及び高天神城に兵糧を運び込むことに成功したのである。

 勝頼が返す刀で岩村城に後詰したのは先に陳べたとおりである。ただ、練度の面からも勝頼は織田勢と本格的に戦うつもりはなかった。そのため勝頼は小手先の千名を選抜して岩村城後詰に送り込んだのであった。

 勝頼が岩村城後詰を後回しにしたのには、他にも理由があった。城将穐山伯耆守虎繁のことであった。勝頼はやはり信玄の申継もうしつぎが気になった。

「虎繁には気を付けよ。油断するな」

 という申継である。

 戦略的重要性からも、また籠もる城将の資質の面からも、勝頼は岩村城よりも小山城後詰を優先したというわけだ。

 岩村城が陥落したあと、穐山伯耆守虎繁は長良川河畔で磔刑に処された。助命の御礼言上のため、虎繁が岐阜に登城したところを捕縛されて処刑されたのだという情報は、勝頼のもとにももたらされていた。

(やはり、虎繁は油断ならざる人物だった。あれは織田に転じるつもりだったのだろう)

 いくら助命を約束されたからとて、御礼言上のため敵将が本拠を構える城に登城するなど聞いたことがない。虎繁は、信長の叔母婿たる地位を利用して織田家に寝返ろうとしていたのだろう。勝頼は口には出さなかったがそのように思い当たったのであった。

 さて勝頼が同盟国や麾下の有力武将に対して

「長篠では先手の二三隊がいささか利を失ったが、大したことはない」

 と負け惜しみの書状を発送していたころ、岩村城を落とした織田信忠は、その手柄を賞されて朝廷より秋田城介あきたじょうのすけに任じられ、信長より織田家の家督と濃尾二国を譲り受けている。

 では信長はどうなったか。

 彼は本貫地たる濃尾を嫡男に譲り、自らは琵琶湖畔に移り住むべく居城の建築に取り掛かっている。年々拡大する領国の経営などは些事として配下の武将どもに押し付け、自らは足利義昭に代わる天下人として天下静謐に専念するつもりであった。織田家中において信長は「上様」と呼称されるようになり、単なる地域権力とは一線を画する存在に昇華したのはまさに長篠戦役における大勝が契機であった。太田牛一が、長年書き溜めてきた信長に関わる事績をまとめはじめたのも、この天正三年(一五七五)、長篠戦勝がきっかけだった。

 朝廷も太田牛一も、そしてほかならぬ信長自身も、長篠戦勝を経たことによって新たな武家政権の樹立を意識しはじめたわけである。

 敗北を喫した勝頼とはこの点、好対照であった。

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