信虎帰還(四)

「誰かある、誰か」

 早朝、信虎の監視に従事する高遠城番手衆は、おあいの悲鳴によって叩き起こされた。何事かとその寝所へ駆け込むと、おあいが仰向けに寝る信虎の耳元まで口を近づけ

「父上様、しっかりなされませ父上様」

 と必死に呼びかけているところであった。

 番手衆がおあいを押しのけ信虎に駆け寄り状態を確かめると、呼吸は既になく脈も振れることがない。つい今し方まで布団の中に身を横たえていたとは思えないほど体も冷たく、あまつさえ下顎は硬直が始まっていた。

 八十を越える老齢の信虎である。それを押して、この厳冬の折にわざわざ近江から信濃まで下ってきた無理がたたったものと思われた。誰も彼も、ただひとりを除いてはその死に疑念を抱かなかった。

 ひとり疑念を抱いたという者、否もっといえば疑念を口に出した者が、信虎監視役の番手衆のうちでもっとも若い大井平左衛門尉であった。平左衛門尉は、信虎の顔面が赤紫色に腫脹していることや、唇が紫色に変色していることを見逃さなかった。頸部の扼痕やっこんもはっきり残されており、平左衛門尉にとっては信虎が何者かによって扼殺やくさつされたことは明らかであった。信虎が扼殺されたという以上、下手人はおあい以外に考えられぬ。

 平左衛門尉はさっそく上役にそのことを報告した。

 上役は

「ふぅむ」

 と分かったような分かってないような相槌を打ったあと、平左衛門尉に対して

「女が何か申したのか」

 と確認したが、もとより自らの見立てによって報告に及んだ平左衛門尉である。

「いえ、ただそれがしが扼殺ではないかと見立て、そうであればあの女以外に有り得ぬと思料致しましたがゆえに」

 と説明すると、上役は平左衛門尉が拍子抜けするほど冷静に

「間もなく甲府より長坂殿が御検視のため越される。報せておこう」

 とこたえただけであった。

 あれだけはっきりとした扼殺痕が残されているのだ。上役がどう言おうとも御検視さえ賜れば、信虎が何者かによって殺害されたということが早晩明白となろう。

 そう考えていた平左衛門尉は、上役より

「釣閑斎殿がお呼びだ」

 と告げられると、待ってましたと言わんばかりに釣閑斎の許へと参じた。上役は約束どおり釣閑斎に他殺の疑いありと報告したのであろう。そのことを踏まえての招致と思われたから平左衛門尉は俄然勇躍した。女の詮議に自分を加えてもらうつもりだったのである。

 女は恐らく、ありもしなかった闖入者ちんにゅうしゃによる犯行だなどと寝ぼけたことをのたまうつもりなのだろうが、厳しい詮議を加えればなに、一両日で本当のことを言うだろう。

 平左衛門尉は女の取調べに自信を持っていた。

 だが釣閑斎から発せられた言葉もまた、先の上役同様に平左衛門尉を拍子抜けさせるものであり、

「そこもとはよい着眼点を持っておる。今後も職務に精励せよ。以上である。帰って良い。大儀であった」

 と、まるで事件はもう終わったとでも言いたげに告げたのみだった。平左衛門尉は狐につままれたような表情で釣閑斎の前を退出せざるを得なかった。

 それ以降呼び出しもなければ信虎の死に関しての音沙汰も平左衛門尉は聞かなかった。それどころか釣閑斎はあの女を伴って早々に府第ふてい(躑躅ヶ崎館)へと帰って行ったという。信虎殺しの下手人として連行されたのかと思えばそうではなく、女は御家に出仕するため釣閑斎とともに府第へ出向いたのだ、という話であった。

 平左衛門尉はいつの間にか信虎の死が有耶無耶のうちに病死扱いされたことを自然と悟るようになった。

 だがその後も色々と経歴を積んだ平左衛門尉は、信虎の死が病死とされたことを不可解なことだと憤ることはもうなくなっていた。かえってあの時自分が義憤のようなものに駆られて真相を徹底的に究明しなかったことは幸いだったと思うようになっていた。

 信虎は確かにあの女によって殺されたのだろう。頸部に残された扼殺痕からも、そのことは間違いないことであった。

 だが、武田家中の暗黙の総意によって信虎は自らの娘おあいに扼殺されたのである。その証拠に、その死を不可解なものだと騒ぎ立てる者は皆無であった。いたとすれば若かったころの自分だけであった。上役も恐らくは、信虎が娘によって消されたということ、そしておあいは御家の意向を受けて信虎殺しに手を染めたということに、うすうす勘付いていたのだろう。その証拠に、信虎実子の逍遙軒信綱ですら父の死については騒ぎ立てるようなことがなかったではないか。

 結局一連の騒動で平左衛門尉が得たものといえば、釣閑斎からかけられた

「よい着眼点を持っておる。今後も職務に精励せよ」

 というお褒めの言葉だけであった。だが平左衛門尉はそれで満足しなければならなかった。

 なぜならば扱いの難しい人物だったとはいえ、相手は当主勝頼の祖父だったのである。いくら出頭人たる長坂釣閑斎とはいえ、それほどの大物を独断で消すことなど出来ようはずがないのだ。おあいの後ろには釣閑斎が、そして釣閑斎の後ろには勝頼に相当近い人物もしくは「それ以上の人物」が存在していることは間違いないことであった。

 他ならぬ信虎自身の娘を使って自分の祖父を消そうという行為に何のためらいもない人が、自分如き小身の侍一人消すのになにを逡巡することがあろう。

 平左衛門尉はなので、

「よい着眼点を持っておる。今後も職務に精励せよ」

 という長坂釣閑斎の言葉に、いま、とても満足していたのであった。

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