信虎帰還(三)
老翁は気付きはじめていた。
勝頼主従が自分を歓迎していないことにではない。もとよりそのようなことなど歯牙にもかけぬ信虎である。他人が自分を気に入ってくれるかどうかなど、この男にとってはどうでも良い話であった。より重要なのは、自分が相手を気に入るかどうかというだけの話である。
その意味では、
「存外に祖父孝行な孫だ」
とした、ひと月前の勝頼評は覆さねばならないだろう。
何故ならばどうやら勝頼は、信虎が望む甲斐への帰国を許さず、このまま高遠城に抑留し続けるつもりらしいということに、気付きはじめたからであった。
その証拠に、信虎が外出を求めても、高遠城詰めの番手衆は
「雪深く足許が悪いゆえ春まで待たれよ」
とか
「信綱様がよきお話相手になってくれましょう」
などとはぐらかして、まともに取り合う様子がない。
足許が悪いというのなら乗物(駕籠)を用意すれば良いではないか、孫六(信綱のこと)ひとりを相手に積もる話も既に尽きたわなどと言ってはみても、番手衆は笑って誤魔化すだけである。諸将の眼前で振るった筑前左文字は長坂釣閑斎が奪い去ってしまって以降、どこへ隠されたものかも分からない。さすがに廃棄されたということはなかろうが・・・・・・。
信虎はおあいを傍らに夕餉の膳をつつきながら
「明朝
と告げた。
「晴信のために腑抜けてしまった家を、わしが建て直してやろうというのだ。諏方の小倅に飼い慣らされる前に、わしが武田の棟梁として甲斐衆を都へ導いてやるのだ」
信虎は虚空を睨みながらうわごとのようにそう呟いた。
「晴信は幼いころから臆病であった。孫子かなにかは知らんがああでもないこうでもないとぐずぐず理屈をこねてはなかなか兵を先へ進めようとせなんだものだ。世間は晴信の軍略を褒めそやしたが、わしに言わせれば晴信のやりようなど生ぬるいばかりで歯がゆいものであった。家の侍共はこの晴信のやりように慣れてしまっているようだ。その侍共に、いくさとはどういうものか、わしが教えてやろうというのだ。二万ほどの軍兵さえあれば、ひと月も経たずに京畿に達して見せよう」
おあいはといえば、信虎のうわごとにまともに取り合うふうもなく、ただ黙々と膳を平らげるばかりである。
「晴信に較べれば諏方の小倅は良い線を行っているが、あの頼重の孫というのが気に入らん。武田はいつの間に諏方の
信虎はあたかも勝頼本人を目の前に置いているかのように憎々しげに毒づいたのであった。
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