信虎帰還(ニ)
「色の白い
上座の老翁は歯がほとんど抜けてすっかり小さくなった下顎を左右に揺らしつつ、まるで珍奇な壺か皿を品定めするようにまじまじと勝頼の顔を眺めながらそう言った後、
「
と、曾ての娘婿、諏方頼重本人を目の前に置いているかのように、勝頼に向かって毒づいた。
勝頼は勝頼で、自分の祖父だと称するこの男が、自分はおろか父信玄にも全く似たところがないことに、密かに驚いていた。共通点といえば、三白眼だった父と同様に瞳が小さいというところくらいであった。或いは父や、そして斯く言う自分も、この老人の
そう考えると、
(長生きはしたくないものだ)
という思いが自然と湧いてくる勝頼なのであった。
老翁は終始不機嫌であった。
勝頼を筆頭に居並ぶ諸将の名を聞いても、信虎のころに活躍した将はもちろん、その
「山県三郎兵衛尉昌景にございます」
家臣団の筆頭山県昌景が信虎に向かって名乗った。
「随分と短身痩躯であるな。飯冨兵部の、年の離れた弟にそのような者があったと聞いておるが、そなたのことか」
この言葉には一同ぎょっとした。いまや武田家における最高責任者として不動の地位を得ている昌景に対し、旧主信玄に弓引いた兄飯冨兵部の話を差し向けることは禁忌であった。そのことに思い至らないのか、敢えてそのように毒づいたのかはしらぬ。
禁句を差し向けられた昌景であったが、少しも動揺することなく
「左様でございますが、いまは御先代より山県の名跡を賜り名乗っております」
とこたえると、信虎はなおも
「兵部の弟にわしが成敗した虎清の名跡を嗣がせるなど浅はかなり晴信」
と、自らが誅殺した旧臣山県虎清及び我が子信玄の名を挙げて失笑した。
次いで名乗ったのは馬場美濃守信春であった。信春は信虎在世中から用いられていたものであったが、当時は教来石景政と名乗る数多い軍役衆のうちの一人に過ぎず、さほどの知行も与えられていない小身の侍でしかなかった。馬場信春こそ教来石景政だと、信虎は気付かぬであろうと誰しもが思っていたところ、案に相違して信虎は何やら信春の顔を見詰め下顎をもごもご揺らしながら思案顔である。
「教来石景政であるな」
信虎ははたと気付いたように、信春の旧名を言い当ててみせた。
「左様でございます」
内心の驚きと当惑を隠しながら信春はこたえた。
「そちのような地侍が美濃守などとは片腹痛い。美濃守と申せばわしが関東より招致した原美濃守より他に知らぬ。これもまた晴信の不見識の為せる業よ」
次いで名乗ったのは春日弾正忠虎綱である。その名を聞くや信虎は
「春日? 確か
と目を見開いて問うた。
虎綱は言葉も短く
「左様でございます」
とこたえただけであったが、信虎はそれを聞くや
「晴信め、文字の読み書きも出来ぬ百姓の倅を寵童として取り立てたと聞いてはおったが、そちがその春日か」
と嘆息するかのように声を上げた。虎綱は伏したまま黙り込むだけである。
「なんだ不服か」
信虎はただ黙ってひれ伏すだけの虎綱に声を掛けた。威圧するようなものの言い方であった。信虎は重ねて
「不服かと聞いておる」
と尋ねたが、やはり虎綱はなにも反応を示さなかった。虎綱は沈黙によって抗議の意を表明しているかのように、周囲には見えた。
それに気付かぬ信虎ではない。虎綱からの返答がないとみるや、上座の信虎はやにわに太刀を抜き、その刀で二度三度と虚空を斬った。老翁の太刀さばきには到底見えない。一同が凍りつく。
「わしはな」
太刀を眼前に構えながら信虎が切りだした。
「わしは、この刀で、かつて自分に諫言した家臣五十余人を手打ちにしたものだ。そちもそれに名を連ねるか」
許容しがたい暴言であったが恐れるやら呆気にとられるやらで誰も留め立てする者がない。そのことを見極めたかのように信虎が続けた言葉は一同の度肝を抜くに十分であった。
「死んだ晴信に代わって、このわしが武田家を導いてやろうというのだ。不服そうな顔をするでない」
勝頼は衝撃を受けた。信虎の
京畿近辺をうろついていた信虎が信玄の死を知っているということは、もはや父の死は京畿においては噂の域を出て確実視されているものと考えなければならないということであった。自分を甲斐から追い出した信玄の死を確信したからこそ、この老翁は、遠路を押してはるばる武田領国までやってきたのである。当然信長も、この老翁同様に信玄卒去の情報を摑んでいることだろう。目の前に座るちっぽけな老人の知る情報を、信長が知らないという僥倖を勝頼は信じなかった。
信虎のこの発言は、武田家が少なくともあと二年は、最も信玄の死を知られたくなかった織田家や徳川家がそのことについて確信していることを前提にしながら、同盟諸国に対しては、反信長陣営の瓦解を防ぐためにも信玄の死を秘匿し続けなければならないという、複雑怪奇な外交関係を展開していかなければならないということを意味していた。勝頼はその煩雑さにも衝撃を受けた。
虚脱状態の勝頼を尻目に、恐れもせず膝を進める者がある。長坂釣閑斎光堅であった。
「なかなかの名刀でございますな」
そのように声を掛けられた信虎は満更でもない様子で
「おお、長坂左衛門であるか。左様。これぞ累代の名刀、
「拝見致します」
釣閑斎の言葉に気をよくした信虎が、筑前左文字を手渡す。釣閑斎は機転を利かせて太刀を信虎から奪い去ることに成功した。
どこか白けた雰囲気になった面会は終了した。勝頼は長坂釣閑斎に、信虎を高遠城に監禁し、外へ出さないように固く命じた。
「名跡を変えてしまった者や会ったこともない者相手ならばいざ知らず、釣閑や馬場美濃守のことを記憶しておった。放っておけば何歳まで生きるか知れたものではない。恐るべき老翁である。外には出せぬ」
勝頼は傍らに長坂釣閑斎を置いていることを知りながらそのように呟いた。独り言のふりをして呟いた言葉であったが、長坂釣閑斎の耳に達するように勝頼は呟いた。そして、勝頼の呟きの意味するところを理解できない釣閑斎ではなかった。
それにしても、と勝頼は思った。
あの祖父の存在もまた、父信玄が遺した難しい問題のうちのひとつに違いない。
世は天正という新しい時代になったというのに、自分の目の前に現れたのは三十年以上前に甲斐から追放された乱世の亡霊のような老人だという事実に、勝頼は打ちのめされつつあった。しかも自分は満座の中で、その老人が放つ異様なまでの毒気に完全に呑まれてしまったのだ。あの老翁は、あれやこれやと人に考える暇など与えず、問答無用で言うことを聞かせる類いの人物であった。あれを甲府に入れたが最後、武田の一門譜代は好むと好まざるとに関わらずあの老翁にひれ伏し、言うことを聞かなければならなくなるであろう。そうなれば武田家は血で血を洗う抗争を繰り広げなければならなくなるであろう。上洛どころの話ではない。
三十年以上前に一度言葉を交わしたことがあるかどうかという釣閑斎や馬場美濃守信春のことを記憶しているということも、勝頼にとっては脅威に思われた。
自分でもまことに馬鹿らしいと勝頼は思いながらも、分国に留まっているとはいえ武田領国に入れてしまった以上、あの老翁を、勝頼の影響力が強く残り、また信頼もしている高遠城に閉じ込めておくことが最善の策だと考えるようになっていた。
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