後の巻 第一章 越後大乱

七尾城の戦い(一)

「御実城様が毘沙門堂に隠られた」

 この噂は春日山城近郷に端を発し、越後国内にさざ波のように広がっていった。噂を聞いた越後軍役衆はこれによって

陣布礼じんぶれ近し」

 を悟り、めいめいが出陣に向けて武具の支度を始めたのであった。

 さて、その謙信。

 護摩壇で供物を焚き上げながら、謙信はただ単に祈禱を捧げていただけではなかった。彼の目の前には越後領内はもとより、関東や信濃、北陸各国の諸城、山岳の高低、河川幅、その深さ、村落の位置、住まう人々の数など詳細が描き込まれている絵図面が広げられていた。

 天文二十二年(一五五三)、武田晴信が若き長尾景虎との対決を前にして

「真の賢者である」

 と評したことがあった。

 各国に放った透破すっぱから得た情報や、自らが重ねた遠征によって得た知見を総動員しながら、その絵図面に謙信は見入っていた。謙信には絵図面に描かれた自然の地物が、目の前に迫る現実のものとして広がっていた。遠く小田原に攻め寄せ巨大な城郭を囲んだときも、八幡原において信玄の眼前に肉迫したときも、謙信は絵図面を子細に検討して戦いに臨んだのだ。謙信は、現実の戦場に臨んで発生した新事態に驚き慌て、朝令暮改するようなことがなかった。すべてはこの絵図面のなかにあり、発生するであろう様々な事象を事前に想定しながらなお出師の本質を見失うことがなかった。この類い希な想像力、本質を見抜く力こそ、謙信が真の賢者たる所以であった。

 謙信の知らないところで彼を真の賢者と評した信玄は既に亡く、後継者勝頼は長篠大敗を受けて謙信に甲越の和睦を請うたのは前に陳べたとおりである。京洛から追放された将軍義昭はこの二者に北条を加えて、甲相越三国の和睦を成立させ織田信長に当たらせることを目論んでいたが、謙信は三者和睦を命じる将軍御内書を得て内心

「冗談ではない」

 という心持ちだっただろう。

 上杉光徹(憲政)から上杉家家督と関東管領職を譲られた謙信にとって、北条氏を関東より打ち払うことは悲願であり、己が存立の根幹を成すところでもあった。

 永禄のころ、信玄が今川氏真の拠る駿河を侵掠したことによって甲駿相三国の同盟が瓦解し、北条氏康は謙信との盟約締結に踏み切っている。謙信は関東管領の職にあったが、北条方が自らに降ったものと読み替えてこれを呑んだ。北条打倒を目的として出師を繰り返してきた謙信にとって、公儀の斡旋とはいえ苦渋の同盟締結だっただろう。一方の信玄は、このとき同盟関係にあった織田信長を動かして、甲越和睦を成立させている。これも名目上は義昭の斡旋によるものであった。この甲越の和睦により、越相の盟約は対武田を目的とする軍事同盟に昇華する一歩手前でその実質的効力を喪失したのである。謙信は甲越和睦に足を取られて、小田原城が甲軍の包囲に陥る危機に際し何ら有効な働きを行えなかった経緯があった。氏康は謙信に不信を抱き、自らの死を契機として再び甲相同盟を締結するよう子の氏政に遺言し、これによって締結後幾許も経ずして越相の盟約は破れた。謙信は謙信で、北条に対する抜きがたい不信感をこの盟約破棄によって新たにしたのであった。なのでこの機に当たり改めて甲相越三国の和睦を斡旋しようという義昭に対し、謙信は

「たとえ勘当されても相模(北条氏政)とは和睦できない」

 と、不動の決意を足利義昭に書き送っている。

 武田との和睦が成立したこの時期、謙信が取るべき行動は二つに絞られていた。即ち、連年の如く越山して関東に討ち入るか。或いは北陸道西進を目指し、加賀一向一揆を滅ぼそうとしている織田信長と無二の一戦を戦うか。武田の蠢動が止めばこそ、いずれの戦線においても真に実を挙げ得ることができるというものであった。

 謙信は目の前の絵図面に目をやった。

 将軍を放逐して、今や信長の勢力は加賀に達しつつあった。このまま放置すればこれまで謙信を散々に悩ませた北陸一向一揆の総本山、加賀が信長によって平定されるのは時間の問題であった。今や織田勢は、能登を挟んで謙信が自らの麾下河田豊前守長親を配した越中の目と鼻の先に迫っていたのである。

「叩くべし」

 謙信は絵図面に書き落とされている加賀手取川付近を、数珠を握った右手の拳でどん、と叩いたのであった。


「上杉の来寇近し」

 この凶報を得て七尾城は大いに浮き足立った。幕府三管領畠山金吾家の庶流として七尾城下に千門万戸の繁栄を誇った能登畠山氏も、七代義総よしふさの治世を絶頂として、次代義続よしつぐのころより群臣の跋扈を許してからは下り坂を転げ落ちるように衰えていった。当代春王丸は当年五歳の幼子おさなごであって、臣下の専横を抑える力は全くないといって良い。庶流とはいえ同じ管領を名乗る家柄であっても斯くの如く衰微しては、武勇並ぶ者なしと喧伝された関東管領上杉謙信の来寇に幾許も耐えられないことは自明であった。

 世に畠山七人衆と呼ばれた畠山群臣は

「謙信には到底敵し得ない」

 ということをよく理解しており、そのうちの一人、遊佐続光つぐみつなどはこれを機に上杉の軍門に降ることを寧ろ是としたし、七人衆筆頭ちょう続連つぐつらは反対に、越前一向一揆を平定し北陸に勢力を伸ばしていた織田信長の助力を得てこれを撃退することを考えていたのであるから、文字どおり国を挙げて浮き足立っていたと喩えるに相応しい。能登畠山氏は国難を前に一枚岩と呼ぶにはほど遠い有様だったわけである。

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