蘭奢待切り取り(三)

「武田勝頼は父信玄も抜くことの出来なかった遠州高天神城を陥落させ、己が武力を恃むところ大となったので、長篠合戦を強行したのだ」

 巷間伝えられる俗説を要約したものであるが、元亀三年(一五七ニ)十月に始まる信玄の西上作戦の過程で、高天神城は確かに甲軍に屈服し、武田方の城に転じている。これが再び徳川に転じたのは、翌四月に信玄が死去してその軍事活動が停滞した隙を衝いたものであって、この天正二年(一五七四)五月におこなわれた高天神城攻めは、勝頼が父に超越しようと企てて起こしたいくさなどではなく、失地回復戦であった。

 岐阜城において、家康の許から日に二度三度走り込んでくる後詰要請の使者に対し

「兵の参集を待っておるゆえ、しばし待たれよとお伝え下され」

 と申し渡し、ていよく追い返していた信長の耳に、城内の騒ぎが入った。

「何事か」

 信長の問いに対して馬廻うままわり(旗本衆)の一が、

「かまり(忍者)らしき不審者が城内に侵入した模様です。いま、人を出して追っております」

 とこたえた。

「どうせ四郎勝頼の放ったかまりだ。捕らえる必要はない。殺せ」

 信長は短く命じると、奥の間へと去って行った。

 かまりは岐阜城二の丸まで侵入したところで発見された。城壁の隅にいよいよ追い詰められ、打刀を構えるがどう見ても多勢に無勢で勝ち目がない。このような状況に陥った場合、侍であれば切腹、討死うちじに、降伏といった選択肢があったが、かまりには切腹と降伏の選択肢はない。降伏をよしとするような生半可な訓練など受けていないからだ。腹を切ってもすぐには死ねないことを彼等はよく知っていたし、それでも切腹にこだわる武士のような非合理性も持ちあわせていないから、舌を噛み切って自ら口を封じ、同時に出血過多で自殺することを選んだ。

 はなから尋問するつもりもなかった信長家臣横井時泰は、このかまりが苦しむ様を見るに忍びなく頸を刎ねている。

 信長が看破したとおり、かまりは武田方が放ったものであった。本年初頭に武田の手中に落ちた東濃十八支城のうちのいずれかから岐阜城内に忍び込んだものと思われた。

 このように勝頼が岐阜城内にかまりを侵入させて混乱を引き起こそうとした所以が、信長による後詰遅延を狙ってのものであることは論を俟たない。勝頼は城攻めをもっぱら穴山玄蕃頭信君のぶただ率いる河内衆に任せ、自らは小山塚と称する天嶮に拠って布陣していると聞くが、それなど織徳の後詰と決戦しようという積極的な意志によるものではなく、万が一そのようになった場合、高所から側撃を加え、戦いを有利に進めるための予防的措置と信長には思われた。

 かまりの侵入を知った信長は、勝頼がどうやら後詰の一戦を望んでいないらしいことを知って胸を撫で下ろした。もし勝頼がそれを望んで高天神城陥落を意図的に遅らせるような挙に及べば、信長の時間稼ぎも限界を迎えて、本当に後詰を派遣しなければならなくなるからであった。

 そこで絶対に勝てるというのなら一戦交えることもやぶさかではない信長であったが、敵は天嶮に拠って待ち構える立場、こちらはそれへ攻め寄せなければならない立場となると、既に先手を取られていることを意味して確実な勝利を期しがたい。当地で勝頼に敗北するということは、蘭奢待切り取りなどの政治的行為によってようやく確立しつつある自らの権威を台無しにすることを意味して、信長を大いに逡巡させた。信長は本音の部分では、勝頼が一刻も早く高天神城を落としてくれるように願っていたのである。

 さてこのころの高天神城内は一枚岩とは到底いいがたい情勢であった。城主小笠原氏助は連年武田の劫掠に曝されることを思うと、いっそ城ごと武田に転じてしまった方が良いのではないかと考えていた。しかし叔父義頼などは武田に対し徹底抗戦、降伏など論外という強硬論者であって城方の意見は一向にまとまらなかった。

 その間にも武田の攻勢は続く。

 城際しろぎわ井楼せいろうを組み或いは櫓を建てて、高みから城内に向け鉄炮を撃ちかけてきたり、金堀人夫に土竜攻めを敢行させ水の手を断ち切るなど、激しくこれを攻めたてた。

 このため城は忽ち窮し、城攻めを開始してから十六日後の二十八日には

「あと十日ほどで陥落だろう」

 と見込まれるほどに追い込まれた。

 この間氏助は武田方と降伏交渉をおこなった形跡があるが、先の事情から城内の意見を降伏一本にまとめきれず、交渉は遅々として進まなかった。これは武田方の不信を買い、

「氏助は後詰をあてにしていたずらに降伏交渉を長引かせている。色々言ってきても容赦しない」

 と勝頼をして宣言せしめるに至る。

 城内では降伏派と抗戦派とに分かれて撃ちあいがあったというから、その陥落はまさに差し迫っていた。

 信長が岐阜を出発したのはそのような折の六月十四日であった。三日後の十七日には吉田城に入り、徳川家臣酒井忠次の先導によって十九日には遠江今切いまぎれわたしに到着する。

 信長は今後の展開に思いを馳せていた。

 敵は目と鼻の先である。事前の情報が正しければ、勝頼は小山塚から信長に襲いかかってくる陣立てである。その攻撃範囲に入らせぬ地点に布陣して、睨み合ったまま高天神落城を待つが上策かと、とてもじゃないが他人に漏らすことの出来ぬ算段を打っていた信長の許に、本当に

「高天神落城」

 の報せが入った。

 しかもそれは、信長が吉田城に達した十七日のことだったという。城主小笠原氏助は降伏、開城して城兵共々助命され、高天神城一円支配を継続して認められるという厚遇を勝ち得たという。

「四郎めを討伐する絶好の機会であったが残念である」

 信長は肩を落とす家康に対し、心にもない慰めを言った。それが家康の心に響かない言葉であると気付かぬ信長ではなく、続けて取った行動は人々の度肝を抜いた。

「いくさにり用と思ってここまで運んで参ったが、こうなってしまっては不要である。納められよ」

 信長は馬の左右に繋いだ革袋を降ろすように命じた。袋一つに人夫二人。相当な重量物のためか、右側に吊していた革袋を先に持ち上げると、馬が左側に倒れ込みそうになるほどだった。

(鉄炮弾か。革袋に入れるとなると米ではあるまい。まさか、黄金ということはなかろう)

 そのまさかであった。

 曾て武田信玄が、手柄のあった者に対し、三宝に乗せられた碁石金を手ずから三すくい授与したという話を聞いたこともある家康であったが、その比ではない。大人二人でようやく担ぐことの出来る黄金を二袋である。

「城一つの価値にも及ばぬ」

 信長が謙遜して言ったひと言に、家康は恐れ入りながら

「滅相もございませぬ。これで戦死者遺族に補償してやることが出来るというもの。ありがたき幸せに存じます」

 とこたえた自分の言葉に気付かされた。

(わしは、信長に金で買われて勝頼と戦っているようなものだ)

 家康は自嘲したが、勝頼の反撃によって領国を切り取られていくであろう事が予想される今後、恥を忍んででも、この黄金を活かさねばならないと考える家康なのであった。

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