蘭奢待切り取り(ニ)

 勝頼による東濃十八城攻略という凶事に見舞われたものの、信長は岐阜が危険に曝されてでも京畿の経営を優先しなければならなかった。いうまでもなく袋叩きの悪夢から解放されていなかったからである。背後に武田勝頼という悩みの種を置きながらも、天正二年(一五七四)三月十七日、信長は上洛した。

 その数日後のことである。数騎の武者が東大寺に乗り付けた。武者は信長麾下塙直政であった。直政は年預五師ねんよごし浄実じょうじつの坊舎へ通された。織田家有力家臣の突然の訪問に、浄実は早くもしどろもどろである。

 大汗をかきながら直政を出迎え用向きを尋ねると、

「蘭奢待はここ東大寺にございますか」

 と尋ねる直政。

 信長から特に言い含められているためか、傲岸不遜なもの言いを控えて直政は訊ねた。ただ、それに続くであろう

「蘭奢待を切り取って、信長に賜りたい」

 という言葉を浄実は恐れ、そして直政が浄実が恐れたとおりの言葉を口にするや、目眩めまいを生じて座しながらその場に倒れそうになる浄実。

「大丈夫でござるか」

 直政が慌てて浄実を支える。まだ春先だというのに物凄い汗である。だがそれも無理のない話であった。というのは、最後に蘭奢待切り取りがおこなわれたのは四十年以上前の享禄三年(一五三〇)のことであり、いまや東大寺にもそのときの蘭奢待切り取りに携わった実務者は皆無、浄実とて記録をひもとかねば、その作法についてまったく知らないというのが実情だったからだ。

「よりにもよって何故いまなのか」

 浄実はそう思ったかもしれない。

 ただ、今日申し入れがあっていきなり明日見せろというわけでもなかろうという見込みも浄実にはあった。

 信長の求めを受けた東大寺側は、

「来春あたりのことだろう」

 と、何の根拠もなくそう思い込んでいたという。東大寺の人々は押し並べて、来春までに各種の記録を調べておけば良い、というくらいの温度であった。

 だが、大和国の新しい支配者としての権威と権力を、一刻も早く興福寺をはじめとする奈良の人々に示す必要に迫られていた信長は、来春まで待つ余裕を持たぬ。なんと申し入れの十日後には奈良に入って、蘭奢待拝観及び切り取りを東大寺に求めたのである。無論勅許を得た上での要求であって、そうである以上、東大寺には、急な申し入れであるとか作法を知っている者がないなどといった理由でこれを断ることは出来なかった。実枝さねきの助言を忠実に守って慇懃に振る舞う信長に恥をかかせるわけにもいかず、浄実はこの十日ほどの間に急遽詰め込んだ知識によって蘭奢待切り取りを執行しなければならなかった。

 まずは年預五師の坊舎に、切り取りを要求した側から名代が派遣され、三献の宴が執り行われた。そののち、信長名代が見守る中で正倉院の扉が開かれ、蘭奢待が倉外に運び出される。蘭奢待はこの段階では櫃の中に納められており、五尺二寸(約百五十六センチメートル)の香木を目にすることはまだ出来ない。

 ただ、初めて櫃を目にした信長名代の人々にとってその大きさは意外だったようで

「大きいな」

 といった言葉が口々から漏れ出た。

 櫃は東大寺の僧によって押し戴かれながら信長の待ち受ける多聞山城まで運ばれ、城内にあった泉殿という場所にて開封された。蘭奢待は遂に、人々の眼前にその姿を見せたのである。

 櫃が開封されると共に、密閉空間に閉じ込められていた濃密な香りが一気に溢れ出す。そのまま泉殿の空気をその香りで支配してしまうのではないかと思われるほど濃密な香りであったが、次第にそれは薄れ、甘さのなかに微かに苦みが混入する清々しい香りに変わっていった。

 火に入れるより前からこれだけの香りを発する香木である。ほんらいの用法に則り火に入れたとしたら、いまにも増してそれはそれはいっそうかぐわしいものになるに違いなかったが、蘭奢待切り取りのために奔走した浄実にはそれを愉しむ権利などもとよりない。信長名代の人々も、信長の相伴に与ることが出来るか否かはその胸三寸にかかっているのであって、このなかで確実に蘭奢待の香りを愉しむ権利を有しているのは織田信長ただひとりであった。

 蘭奢待は仏師によって一寸八分(約五・四センチメートル)四方に切り出された。仏師は同じ大きさにもう一片を切り出した。切り出された香木二片が三宝に乗せられて信長に差し出される。

 信長は手ずからこれを摑み取る無作法を働くことなく、三宝に乗せたまま、居並ぶ東大寺の僧に向かって

「ひとつは禁裏様に進上いたす。もうひとつは我等が拝領する」

 と宣言すると、自身の馬廻どもに対して

「後々の語りぐさともなろう。これを機会によく見ておけ」

 と、直近での拝観を許したという。

 斯くして勅許を得、勅願寺たる東大寺が所蔵する正倉院宝物蘭奢待を切り取った信長の権威は大和に知れ渡った。

 奈良下向に際し、引率してきた三千もの軍兵に対して、寺社への宿泊を禁じた信長の措置も人々から賞賛された。兵による乱妨狼藉を事前に防いだものと理解されたのだ。

 一連の過程を眺めると、信長は恐らく、蘭奢待そのものにはあまり興味を抱いていなかったのではあるまいか。奈良すなわち大和における新しい支配者としてその権威を誇示できるならば、敢えて蘭奢待拝領に拘泥する理由がないからである。

 いずれにしても、蘭奢待切り取りの際に信長が示した「一段慇懃」な態度は功を奏し、大和の平穏は天正五年(一五七七)に松永久秀が信貴山城に叛旗を翻すまでは保たれることとなった。あまつさえ寺社勢力がこの地域で信長に楯突くということはなかったのであった。

 その信長が京都滞在を切り上げて、慌てて岐阜へと帰還したのは五月十六日のことであった。同月、あの武田勝頼が遠州に雪崩れ込み、要衝高天神城を取り囲んだとの報せを得たからであった。武田勝頼の蠢動により京畿の経営を中断せざるを得なくなった信長は歯嚙みした。

(天下静謐を妨げる怨敵め。諏方の小倅め)

 信長はつい二箇月ほど前に自らの鼻を愉しませた蘭奢待の香りも忘れ、血と硝煙の臭いが充満する戦場の景色を思い出しながら、岐阜へと取って返したのであった。

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