信玄卒去(四)
「これ以上在陣することは、御屋形様の御命を危うくすることだ。勝頼殿はそれでも良いと申すか」
勝頼の呻吟を聞き逃すことなく咎め立てしたのは内藤修理亮昌秀であった。それは勝頼が呟いた言葉とは比較にならないほどの大きな声であった。はっきりいってしまえば勝頼の呟きはよくよく聞き耳を立てなければ聞こえないほど小さな呟きであった。昌秀はその呟きの言葉尻を捉えて満座の中で殊更咎め立てたのである。しかも勝頼は、信玄の命が危うくなっても良いなどと一切口にはしていない。
「父上の御命が危うくなっても良いなどと、思いもよらぬことだ!」
勝頼はすぐさま反駁した。
「同じことでござろう」
なおも勝頼を咎める昌秀に対して口開いたのは、長坂釣閑斎である。
「待たれよ修理亮殿。御曹子はただここまで来て軍を返すかと呻吟なされたのみ。それがしは隣ではっきり聞いておりました。当家の弓矢が勢いを増すなか、陣払いを無念に思うは武士であれば当然のことではありませんか。殊更咎め立てする話でもございますまい」
この釣閑斎の言葉に対して昌秀はいっそう激昂した。
「釣閑翁はそれがしを武士ではないと申すか!」
昌秀の激昂は誰の目にも無理筋であった。
「さにあらず、さにあらず」
という長坂釣閑斎の釈明を聞くまでもなく、釣閑斎は内藤昌秀を武士ではないなどと揶揄したものではなく、勝頼の撤退を無念に思う気持ちを代弁しただけであった。だが家中における席次高位、動員兵力も屈指の大きさを誇る内藤修理亮昌秀に対し、留め立てする者がない。老将馬場美濃守と山県三郎兵衛尉昌景あたりが、ようやく長坂釣閑斎と内藤修理亮昌秀の両者を引き離すことが出来る程度であった。
座は一応落ち着きを取り戻した。
「勝頼様の御存念、承りましょう」
丁寧なもの言いとは裏腹に、一応その意見を聞いておく、とでも言いたげな調子を、原隼人佑昌胤の言葉から鋭くも感じ取った勝頼であったが、そのことについて咎め立てすると、先ほどの内藤昌秀同様、またぞろ一座を混乱させるだけだと考えて受け流し、自らの存念を口にした。
「確かに現下、父上の病状は一進一退、予断を許さぬ状況にある。行軍をともにすればたびたび吐血なされ、食も咽を通らず、このところ腹に入れておられるのは湯茶ばかりだ。ために体力の低下甚だしく、父にこれ以上の在陣を強いるわけにはいかぬと考える点はみなとそう変わらぬ勝頼である。さればこそ、父上の御身は先行して府中へと御帰還願い、そこでゆっくり静養していただき、我等だけでも都を目指し西上を継続すべきではないかと考えるがどうか」
勝頼のこの言葉に対し、諸方から
「それは、無理というものでござる」
とか
「御屋形様がお許しにはなるまい」
といった声が聞こえてきた。
誰も賛同者がないことを知った勝頼は、促されて発言したことを後悔し始めていた。次期当主たる自分の案が否決されるということは、事後の政権運営が困難を極めることを示しているからだ。このようなことになるのであれば、やはり沈黙は金、群臣の議論するに任せそれについて裁可を下すだけにしておくべきだったと勝頼が思い至ったとき、やにわに
「御曹子の御存念、理のある話でござる」
と同心する者がある。誰かと思えば跡部大炊助勝資である。
跡部は言った。
「我等は御家の蔵を管理する立場にあってよう分かっております。蔵にはもはやさほどの銭もありは致しませぬ。御家の財貨は払底しつつあり、そのような時節に本国などへと逼塞すれば課税によってでしか財政を建て直す
跡部は武田家の台所事情に、かなりのところまで踏み込んで意見を陳べた。
当代の武士にとって、鑓一本で武勲を打ち建てることこそ最も名誉とするところであった。いくさ場にて命懸けの功名を競うことこそ彼等の本分なのであり、算盤勘定など二の次三の次であった。だがそれは確かに武士の心構えとしては立派であるけれども、いくさというものは実際には、算盤勘定を抜きにして語ることが出来ないものである、という点もまた動かせない事実であった。そして、個々の侍がいくさ場で命を懸けることよりも、ともすればこういった算盤勘定の方がいくさではものを言うことがあった。無論そのことを知らぬ原隼人佑あたりではない。否、寧ろそういったことを知悉しているために、跡部の意見に有効な反論が出来ないと知って
「いま、我等は御屋形様の御身が病で危ういという話をしているのです。御家の蔵が払底しつつあるから帰る帰らんという話をしているのではござらん。論点がずれ申す。少し黙られよ」
と、どちらが論点をずらしているのか分からないようなもの言いで跡部の口を封じてしまった。
勝頼はもうこの場で何も口にしないことを誓った。それは、自分の意見が通らないことによって権威が蔑ろにされることを恐れたということがひとつ。いまひとつは、この軍議に出席していた跡部大炊助勝資と長坂釣閑斎光堅の少なくとも二人は、自分の意見に理解を示したことを見極めたからであった。
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