武田勝頼激闘録

@pip-erekiban

前の巻 第一章 勝頼誕生

生い立ち(一)

「俺は、腹を切ろうと思っている」

「・・・・・・」

 問われた伊豆守満隣は瞑目したまま黙して語らず、薩摩守満隆の言葉に対し眉間の縦皺を一層深くした。満隆は念を押すように続けた。

「誰かが声を上げねばならぬ」

 沈黙がしばし流れ、空気が重く沈む。

「そなた一人の存念で、一門を危機に陥れることになるのだぞ」

 満隣は重い口を開いて、腹を切ると言い出した弟を咎めた。咎めたが、何としても押し止めようという強さを感じるものの言い方ではなかった。満隆は青ざめながらなおも

「新六郎が大祝おおほうりに据えられ、祭礼は滞りなく執行されたのです。兄上はそれで十分でしょう。しかし俺は・・・・・・」

 と言って、兄の言葉に耳を傾ける様子がない。

 満隣は

「そなたの苦衷、知らぬわしではない。これを機に、千代宮丸の処遇を如何に思し召しか、御屋形様に確かめようと思っておる。したがって軽挙は慎め」

 と、やはり生ぬるいものの言い方で止め立てするより他になかった。

 四年前の天文十一年(一五四二)七月、諏方満隣満隆兄弟の甥にして諏方惣領頼重は、甲斐の武田晴信及び下社金刺氏、同族たる高遠諏方頼継に攻められ降伏、甲府へと連行されたうえで東光寺にて切腹を強要された。神祇を司る大祝諏方頼高も、このとき兄頼重同様に切腹の憂き目を見て、諏方家は惣領並びに大祝を一時にして失ったのである。なお大祝職は歴代、惣領家のうちから幼年の男児を充てるのが通例であって、これなくんば神位一位、信濃一宮諏方大社の神事を執行することが出来ない要職であった。

 惣領諏方頼重には妻が少なくとも二人あった。一人は武田晴信妹にして正室禰々ねねである。頼重が武田家、高遠諏方家等の侵攻を受ける直前、二人の間に子供が生まれている。即ち諏方大社大祝延いては諏方惣領職に就くべき男児寅王丸であった。この男児は惣領頼重及び大祝頼高の両名を一時に失った諏方衆にとって、唯一遺された希望ともいえる存在であった。

 なお、頼重のもう一人の妻麻績おみ夫人は、信濃国人麻績氏の娘であり、頼重はこの夫人との間に女児を一人もうけている。名を於福といい、代々神職を司ってきた諏方家の血を引いて容姿端麗な姫であったと伝えられる。

 頼重亡き後の諏方衆を束ねたのが、頼重伯父伊豆守満隣とその弟薩摩守満隆であった。

 頼重頼高兄弟切腹の僅か二箇月後、領土分配に不満を抱いた高遠諏方頼継が、福与城主藤澤頼親、矢島満清等と談合して諏方へと攻め込んできた。諏方満隣満隆兄弟は取り急ぎこれに対抗しつつ、新しく諏方の支配者となった武田晴信と協議した。諏方衆の人心を掌握すべく生後五ヶ月の寅王丸を名目上の総大将に推し戴き、侵略者に対抗するためであった。

 同祖とはいえ惣領家に弓引いた挙げ句これを滅ぼし、そして今また諏方領へと攻め寄せてきた高遠紀伊守頼継に対する諏方衆の怒りはもとより凄まじく、加えて武田が寅王丸を御大将に推戴し援軍を派遣してきたのであるから、諏方衆の士気は否が応でも昂揚した。両軍は諏訪郡宮川橋において激突し、武田諏方連合軍は高遠頼継一党を諏方から打ち払うことに成功する。頼重遺児寅王丸の軍が侵略者を諏方から撃退した、という構図がここに出来上がったのである。寅王丸にとってこの戦勝は、彼の人生に訪れた一瞬の絶頂であった。

 満隆は、このとき寅王丸擁立に尽力した経緯があった。このたびの戦乱にあたり寅王丸の影響力を諏方に行使することによって、将来かれによる諏方支配の地ならしをしようと意図したためであった。満隆は寅王丸擁立を約束して諏方衆の蹶起を説いて回っている。人々はこの約束を信じたからこそ、高遠頼継相手に結束して立ち上がったのだ。

 なお、相前後して寅王丸は、晴信によって千代宮丸と改名されている。寅王の名は縁起が悪いというのが改名の理由であった。

 その満隆にとって、甲斐の武田晴信と、もう一人の頼重遺児於福が結婚して、その間に新たに男児四郎をもうけたことは、千代宮丸の地歩を危うくする新事態以外のなにものでもなかった。四郎の誕生によって、満隆は対高遠戦でった諏方衆から白眼視されるようになった。

 誰も口には出さなかったが、満隆には

(薩摩守満隆は甲斐の武田にたばかられた。我等はていよく武田の手伝いをさせられたのだ。満隆はその片棒を担がされたのだ)

 という人々の怨嗟が聞こえてくるようであった。

 高遠頼継を諏方から撃退した後も、千代宮丸が大祝職に就く、という話が具体的に進展する気配はなかった。千代宮丸が幼少に過ぎると言い条、後見をつけて大祝職に就けるどころか、その職は満隣の子新六郎が継ぐ始末である。

(武田家は結局、千代宮丸を廃するつもりなのではないか)

 という満隆の疑念は、晴信と於福との間に男児が生まれたという新事態に接して確信に変わった。そして同様の確信を、諏方衆の多くが抱いた。

 諏方衆のうちには、

「千代宮丸は父母を失って後ろ盾を欠いている。これを廃して四郎を頼重跡目に立てることはやむを得ないし、寧ろその方が諏方の安定と発展にもつながるではないか」

 と、この新事態を容認延いては歓迎する意見が多かったが、旧主の子千代宮丸擁立を飽くまで求める勢力も一定数あった。

 その代表が薩摩守満隆であった。

 満隆が腹を切ると言い出したのは、武田家を牽制するためであった。千代宮丸派の抗議を、満隆は行動で示すつもりなのである。

 満隆の憤怒に接して困惑したのは、自身の子新六郎が大祝職に就いた伊豆守満隣であった。晴信と於福との間に四郎が誕生した今、大祝に就いたとはいえ、新六郎が将来諏方惣領家を継ぐと確信を以て言うことは出来ないが、少なくとも新六郎が大祝職を継いだ現状に不満はない。同時に千代宮丸擁立を画策する満隆の不満は、同じ諏方の一族として理解できるものでもあったから、切腹を咎める満隣の舌鋒はどっちつかずであって、自然と鈍った。満隣は、満隆の切腹を押し止める有効な言葉を持たなかった。

 それからしばらくして、満隆は自邸において本当に腹を切って果てた。四郎誕生から約一箇月後、天文十五年(一五四六)八月二十日のことであった。

 薩摩守満隆切腹の報せは、満隆遺書と共に急使を以て甲斐府中躑躅ヶ崎館へともたらされた。晴信は瞠目して満隆切腹の報を聞いた。晴信は、使者の口上を聞くより先に、満隆の切腹が自身に対する抗議の意を籠めていることを看取して

「余と於福との間に男児が生まれたことの、何が不満か」

 と、驚きの表情と共に困惑を口にした。

 晴信は使者が持参した血染めの満隆遺書については一切手を付けることななかった。何が書かれているか、見て確認するまでもないと思われたので、その概要を使者から聴いただけで済ませた。

 飽くまで千代宮丸擁立を懇願する満隆遺書は、晴信によってこのとき握りつぶされたのである。同時に満隆の切腹という事態は、さきざき千代宮丸が武田家の禍根になることを恐れた晴信に、かえってこれを排除し出家させることを決意させたのだから皮肉なものだ。

 この直後、千代宮丸は甲斐国内の某寺に入れられ、長笈ちょうきゅうと名乗ることになる。

 頼重遺児千代宮丸を排除した晴信であったが、即座に四郎を諏方惣領又は大祝職に就けることはしなかった。しなかったというよりは、満隆のように考える者が今後も出現するのではないかと思うと、頼重の孫であるからとて、四郎を諏方惣領家の跡目或いは大祝職に立てることは、この期に及んでなお憚られたのである。

 このころ晴信にはどうしても決着をつけなければならない国内の問題があった。家政の最高責任者たる両識の一人、板垣駿河守信方の専横が甚だしく、いよいよ放置することが出来なくなってきたのだ。晴信は、この油断ならざる人物を、領土に組み込んだばかりで支配の不安定な諏方へと送り込んでいる。占領地行政に失敗してもらって、処断するか家中から放逐する口実を得られればなおよいと考えた晴信による人事であった。晴信は山本勘助の献策を容れて、敗軍を許容しながらも天文十七年(一五四八)、上田原にて板垣駿河守信方や甘利備前守虎泰等、統制に従わない宿老どもを粛清することに成功している。晴信はこれ以後、佐久や伊那、筑摩を転戦して勢力を拡大し、信濃に連戦することとなる。

 このころ四郎は諏方の人間として、母於福とともに上原城に暮らしていた。しかしこのまま四郎を諏方に置き続けることを、晴信はためらった。今は連年討って出て、信濃先方衆として諏方衆を外征に駆り出すことにより、その眼を外に向けることに取り敢えずは成功している。しかしいずれ落ち着くときが来るであろう。そのとき、諏方衆は、当然のように上原城に鎮座する四郎に対して、どのような視線を向けるであろうか。そのことを考えると、

(四郎の処遇を今のうちに考えておかねばならぬ)

 と思う晴信なのであった。

 晴信は付家臣と共に、四郎を高遠諏方頼継の許へと送り込むこととした。その養子とするためであった。

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