生い立ち(二)

 一度は武田に与し、共に諏方頼重を滅ぼした高遠紀伊守頼継であったが、その領土分配を巡って武田に叛旗を翻した経緯は前に陳べた。晴信は何故、このような油断ならざる人物のもとへ我が子四郎を養子にやったのであろうか。

 話は今より百八十年も前に遡る。応安五年(一三七二、南朝では建徳三年)、諏方頼貞は、遠国おんごく信濃国諏訪郡からはるばる帝都へと下向していた。当年十五に達した将軍義満に謁するためであった。

(これが名にし負う三条坊門殿か)

 頼貞は、信濃では修造直後の大社社殿を除いては目にしたことがないような、荘厳、絢爛たる邸宅を前に圧倒されていた。しかし頼貞は緊張する自らを奮い立たせた。

(俺はこれから諏方家の惣領になろうという男だ。何も臆することはない。それに相手は将軍とはいっても、俺より十も年少の若造じゃないか)

 そのように考えると、頼貞はもう面謁する前から将軍義満を圧したかのような気分になった。事実初めて目にした将軍義満は齢十五、身形みなりも小さく、細川頼之等幕閣歴々に囲まれているとはいえ文字どおり子供そのものである。頼貞は一応北朝に降伏し、赦免を得た挨拶のために上洛したものであったが、心の裡では義満を圧倒するつもりでいた。

 しかしそれがどうだ。いざ謁見すると、頼貞は事前の相手を呑んだ気魄もどこへやら、逆に子供だとばかり思っていた義満に終始圧倒されっぱなしであった。頼貞が心の裡に秘めた心根を、口を衝いて出て来ることがない本心を、えぐり出そうとする視線を、頼貞は伏せた頭頂部にざくりと感じた。

 考えてみれば上座に座るこの人物は、物心ついたときから決して本心を口に出さない、自分に対し本当に忠節を誓っているのかそうではないのか、定かではない魑魅魍魎を身辺に置き、そういった者どもを相手にして今日まで生きて来たのである。十も若年だからと舐めてかかった頼貞の心根など、手に取るようにお見通しだったに違いない。

 後年、「千仏の顔輪」と称された義満の、並々ならぬ品格の前に、頼貞は脂汗が止まらなかった。

「このたびの御差配、恐悦至極に存じます。我等諏方家、一門挙げて公方様に忠節を尽くす所存にございます」

 伏せた頼貞の額からぽたりと一滴、汗が滴り落ちる。汗は床板の目地に吸い込まれてうっすらとその痕跡を残すのみとなった。頼貞はそのことに安堵した。垂れ流した汗の痕跡を嘲われなくて済むと思ったからであった。

「よくぞ参った。今後益々忠節に励むよう。本日は大儀であった」

 義満は型どおり言うと、席を立った。

 陪席の幕閣がそれに続き座をあとにする。頼貞が広間を出ることを許されたのは幕閣の最後尾が奥へ消えたことを見届けてからであった。将軍義満との面謁を終えて大息をいた頼貞であったが、この儀式を終えて頼貞は実に大きなものを勝ち得た。

 即ち、諏方家の惣領たる地位を得たのである。

 本来諏方惣領家は鎌倉幕府の事実上の最高責任者たる北条徳宗家の御内人みうちびとであって、北条高時滅亡後はその遺児亀寿丸とともに自領に逃れ、中先代の乱ではこの亀寿丸を奉じ鎌倉を占領しているほどだ。諏方頼重(先代)時継父子は鎌倉に足利尊氏直義兄弟の大軍を迎え撃ち、善戦空しく討ち滅ぼされた。徳宗家の御内人たる諏方家にとって、北朝は明らかに敵対勢力、この北朝と対立する南朝は諏方にとって潜在的な味方である、というのが、諏方惣領家の公式見解であった。頼貞は惣領家のこういった意向を無視して、惣領家簒奪を目論み北朝に降ったわけである。幕府は信濃守護小笠原氏に頼貞を支援させ、武力に拠って惣領諏方信員のぶかずを高遠へと追いやった。

 なお南朝に味方する恐れがある信員一党を高遠に追いやっただけで、幕府は何故族滅に追い込まなかったのであろうか。これこそ、複雑に入り交じった血縁や永年かけて育まれた家中の怨念を温存し、自分たちに楯突いた際には敵対勢力を味方につけるという策謀に基づく政策であった。

 このような幕府の「一貫した一貫性のなさ」は、戦乱に次ぐ戦乱を惹起して、延いては自分たちの力さえも削いでしまう危険性を孕むものであった。幕府のかかる政策が、後世の混乱に直結することを、神ならぬ身に知る由もない幕閣歴々なのであった。

 兎も角も頼貞は惣領の地位を得、信員は高遠へと追いやられて高遠諏方家の祖となった。信員系の血筋はもともと諏方惣領職だったのであり、その後裔たる高遠紀伊守頼継が、百八十年の時を経て諏方惣領家の地位を望んだことも、あながち故なきことではなかったのである。

 無論、このような諏方家を巡る血塗られた歴史を知らないで諏方侵略の食指を動かした武田晴信ではない。諏方頼重攻略の旗を揚げた際に高遠頼継と協働したのも、実にこういった惣領家と高遠諏方家のねじれ関係を知った上でのことだった。

 晴信は於福と自分との間に男児が誕生したことを、諏方衆のすべてが歓迎しているわけではない、ということを知っていた。喜ばぬ者たちも一定数、諏方衆のなかにはいるに違いないと考えていた。しかし同時に、そういった者達の声は、四郎誕生を喜ぶ声にかき消されるであろう、したがって四郎誕生とそれに伴う諏方惣領家簒奪計画を、武田の陰謀と指弾する声も表立って唱えられることはないであろうと晴信は高をくくっていたものであるが、事態がそう簡単ではないことを、晴信は満隆の自死によって思い知らされたのだった。これが四郎を諏方ではなく高遠へと養子にやった第一の理由である。

 第二の理由は、甲斐武田家中から高遠諏方家中に監視役を送り込むためであった。四郎を養子として高遠家中に送り込むということは、武田家から四郎の付家老を送り込むということを意味していた。四郎付の家老を、腹背常ならぬ高遠の監視役に充てたわけである。この人事は高遠諏方家の一部には、高遠諏方家が諏方惣領の地位を取り戻すことが既定路線になったと受け止められた。

 つまり晴信は、諏方衆に対しては四郎による惣領職継承を明示することなく高遠諏方家へ養子にやって、一方の高遠諏方家に対しては四郎を養子にやることで将来の惣領復帰を暗示したわけである。結論を先延ばしにして玉虫色の決着を図った結果であった。

 ここまで辛抱強くご覧になって、あまりの煩雑さに嫌気が差した向きも多かろう。人間関係は複雑に絡み合い、二百年の怨念を解きほぐすのは実際容易ではなかった。諏方そして高遠の両地を治めるということは、この怨念を武田分国のうちに抱え込むということに他ならない。

(こうまで根が深いとは・・・・・・)

 晴信は諏方、次いで高遠を掌中に収めて、この両者のあまりにも複雑に入り乱れた関係に辟易した。

「なんとか上手い方法はないか」

 誕生した四郎が、諏方衆から必ずしも歓迎されているわけではないことを知って、晴信は山本勘助に諮問した。勝頼に諏方惣領家を相続させる上手い方法を、である。

 だがその勘助も、薩摩守満隆切腹に衝撃を受けた一人であった。勘助は飽くまで当代の視点からでしか諏方惣領家と高遠諏方家との関係を見ていなかった。歴代重ねてきた怨念の一端を知ったのは、満隆切腹の後であった。

 上手い方法は、と問われた勘助は

「無理です。諏方衆がおしなべて四郎様を歓迎するということはございますまい」

 と即座に言い切った。言い切ってから次のように続けた。

「そもそも諏訪と高遠の間にここまで複雑な事情が入り乱れているとは思いもよりませなんだ。これを解決しようと思えば、相互に怨念を抱く諏方、高遠の人々を草の根分けてでも探し出し族滅に追いやるほかないと存じますが不可能でしょう。御屋形様が採り得る手段は、いくさをして、他国を切り取り、諏方や高遠の人々の眼を常に外へ外へと向け続けることです。いくさを続けなければならぬ以上、勝ち続けなければなりませぬ。もし敗れるようなことがあれば、諏方や高遠の人々は、相手のことも忘れて累代の怨念を武田に向けることとなりましょう。勝って、勝って、勝ち続けて・・・・・・」

 勘助はここまで言うと言葉を区切った。そして最後に冗談とも本気ともつかぬ顔でこう言った。

「京の都へと引き退かれるがよい。天下人となられよ。そうすれば、都まで追ってくる諏方や高遠ではありません」

 勘助の隻眼は晴信を見据えていた。

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