甲相手切(五)

(いよいよ手切か)

 勝頼は肚を固めた。この上は諸将が如何に反対しようとも、手を拱いてはいられなかった。北条方による国境の城普請に対する措置を諮問する軍議において諸将から様々な意見が語られた。国境の城郭普請を挙げて氏政の不義を唱える者或いは北条方による城普請を挑発ととらえ、これに乗らず事態静観、同盟継続を唱える者があって全会一致は期しがたい。勝頼はこれらの意見に耳を傾け、軍議の最後にあたり口を開いた。

「なるほど当家は先代より北条と手を携え共存の間柄ではあった。長篠戦役後、美濃、三河の諸城を失陥しながらなお信濃の寸土たりとも西方の諸敵に踏み込ませなかったのは、東方に北条の支えを得たからであろう。今、北条との手切に及ばんか、我が武田が東西から挟撃されることは間違いない。しかし国境の城普請に着手したところを見ると氏政は既に手切を決意しているように見受けられる。この上は拱手傍観している暇は寸刻もない。御旗楯無も御照覧あれ。速やかに兵を東に差し向けて北条を討ち滅ぼしてしまえ」

 勝頼がここまで言うと、もはや北条との手切に反対する者はいなかった。勝頼は甲相手切を宣言し、北条と敵対する佐竹義重に対し通好の使者を送り込むと共に、来るべき対北条戦における勝利を祈願するために、鉄山宗鈍起草にかかる願文を伊勢大社及び熊野権現に奉納している。いささか長くなるが引用しておく。氏政との対戦に臨む勝頼の決意の程が滲み出て興味深い。


伊勢天照大神宮宛勝頼願文

敬白

其れ天地開闢の後、日月未だ地を転ぜず、神有り徳有り。その故に己に直くして道を行うものは、幸いを天に受け、其れ他を僻して利を貪らば、罪を天に蒙れり。

抑も日域の主、天照皇太神は、その濫觴らんしょうより以来、神徳ますますまさるなり。詳らかに古を詩書に考し、以てその字の徳を明らむるに、二人和するをこれ天と謂い、日を召すの心これを照と謂う。神はすなわち鏡なり。濁りを諱み、中略するこれを神と謂う。この故に和して違う無く、召して陰無く、清くして濁り無く、垂跡すいじゃくすること胡漢の現るるが如し。これに依りて仰ぎて天照太神と号し奉る。かたじけなくも吾がちょうの天たるや地たるや、感応すること昭々霊々、大明にして私無きものなり。誠に天下の談士も庸人も孺子も、これを崇敬せざる無し。

ここに氏政なる侫士あり。隣を以て誼を懐き、主陳しゅちんの交わりを結び、しかのみならず誓いは神明に鑑み、或はその手に薔薇をし以て榊を取り、或はその身に菡舊かんきゅうし以て神灰を納め、互いにその信を守り、聊か国家を泰山に措かんと欲す。

然り而して本年冬小春、彼の侫士鼠心そしん蜂発し、盟にばいし鱗を鍛じ、翻覆ほんぷくの手を挙ぐるがごときに至り、塞上金湯を犯すこと星火の如し。嗚呼天罰神罰、かれそれ奈何いかにせん。ここに幕下の諸将議して、これを討たんと欲す。

臣はみずからに曹操の智計無しといえども、猥りに自ら諸将に示して曰く「臣躬神徳を守るに、彼みだりに神命に負く。その性智はまことに庸人、孺子より愚かなるものかな。凡そ其れ巧言令色にして、その暴悪を行うものは、天其れかんがめざらんや、神それを罰せざらんや、ただ座して亡ぶを待つに如かずと、これをつといずれぞ」諸将理において黙して去れり。

然りといえども彼の兇儔きょうじゅうの境を犯せるの日、これを思惟するに寝れど席に安んぜず、つらつら謂以おもえらく宜しく先ず天運を仰ぐべしと。故に即ち今この良辰において、謹んで禊事を修め、厳かに神楽を奏で、以て神聡に達し奉らん。

伏してこいねがわくは忽ちこの神徳を守れる愚臣を擁護して、速やかに彼の神命に負ける侫士を追罰せんことを。且また素懐を東賊の本邦に遂ぐるに至りては、必ず要地を割取し、以てとこしえに神徳を増すべきものなり。烏沙巾の上に偽りあるべからず。この旨は霊鑑もて瑞相あるべし。特に本地定光仏の応化もて、内は胎蔵界の日輪、外は金剛界の月輪、ならびに下土を照々見せよ。

元よりこれ法々無二の境界なれば、仏は即ち神、神は即ち人にして、毫釐ごうりも差無く、人道わずかに乱れば、神道仏道もまたともに亡びん。これを以て人の臧否ぞうひ、神仏いかでか賞罰を加えざらんや、はたまたそれ霊験なくんば、先ず天なり照なり神なりと謂わん。清徳は渾泥こんでいの土に棄てられんことは必ずなり。嗚呼神は正直を以てその心と為す、抑も眼前の正邪は、なんぞ胡竭の威力をしてこれを治めざらんや。

夙夜しゅくやつつしみて、天の永き命を祈る、的に来機に赴き、祈願に負むくなかれ。仍て愚信を陳べて以て聞こゆ。

再拝再拝、武運長久、国家安全。


  天正七年己卯嘉月如意珠日 源勝頼 判

 伊勢天照大神宮御宝殿


熊野三所大権現宛勝頼願文

源勝頼謹んで白す

帰命頂礼きみょうちょうらい、日本第一熊野三所大権現は、すなわち弥陀、薬師、観音これなり。かつて衆生済度の為、摩謁陀まがた国より、吾が朝に飛来し、忝くも国家を鎮護す。つらつら三所の秘要をはるかに観るに、自ら利するは仏法僧の三宝、他を化するは天地人の三仁、さらに自他無く、三仏一体、々々三所大権現、立ちてかなえを分かつ。

おおよそこの邦に命ずるもの、誰か肯んじてこれを仰がざらんや。故に今月如意珠の日、寅みて九州宝鼎をげて八功徳水を盛り、十真如花を献ず。伏してこいねがわくは玄鑑げんかんを垂れんことを。

右を祝する意趣は、隣壌の佞士平氏政、改年の先、親族に事え、互いにその鉾を交え、既にして儀するに和平を以てし、誓うこと帯河ならんと。王公これを察し、鬼神これを威す。然り而して今また佞孽ねいげつ未萌みほうに息するを得ずして、終に吾が邦河陽の東南に向かいて、無明の烽火を挙ぐ。時これ十月、序は三冬に属す。讒波起こりて多子浦濁り、咲烟しょういん凝りて富士の雪紫なり。嗚呼悲しいかな、彼已ってするに時か命か、神明に鑑み以て猥りに神徳を減じ、仏陀に誓い以て呂忠に仏法を昧うす。然れども此の如くんば則ち三仏いずれかこれを救わんや、三所権現いずれかこれを罰せざらんや。運は全く天には在らず、只だ自己に在るものなり、このときに丁たってこれを亡ぼすこと掌を指すが如し。これ天下の公言なり、一人の私言に非ず。

然るといえども臣は新羅の苗裔たるを忝うし、箕裘ききゅうの塵に墜ちず、志を文武に研く。けだし新羅は中華に在りて、亦た東方の君子の国にして、文武かね備えり、将雑古より書に出づと云う。夫れ天を亡ぼすは君子の道にあらず亡ぼす。これを以て譜臣いやしくも東方君子の国に生まれるに、胡克面夫れ天亡ぼすを亡ぼせんや。この故に房矢囊弓もって渉りてここに居るのみ。然らば此の如きといえども彼の兇徒命に負き逆を行えば、則ち君子といえども亦たあにこれを討たざらんや。かれ即ち神明徳を減じ、以て暴悪を為す。臣即ち君子の道を守り以て文武を備う。嗚呼三所よ冥慮めいりょもて詳らかに此の理に党し、宜しく将に守護を加えんとすべし、日にあらずして旗旄きぼうもて前に導き、騎卒もて後に擁し、どうを以てを侫士の本邦に建て、鍔を扣ええびらを敲き、万喜もて一笑に供するものなり。然らば乃ち神に薦むるに彼の澗溪かんけいの毛を以てし、永く宗廟を修飾せしむるべし。霊鑑限りにあらず、速やかに察納して以て褫臣ちんしんの願う所を成せ。至祝至禱ししゅくしじゅ、矯首再拝、三宝証明、諸天同鑑。

 

 天正七年竜集己卯吉日良辰  武田大膳大夫 判

熊野三所大権現御宝前

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