長篠城攻略戦(五)

 月が改まって五月一日早朝、野牛曲輪の守備に就く長篠籠城衆は、竹束を押し立てながら、ざぶざぶと川に乗り入れる甲軍多数を目撃した。

「来たぞ」

 籠城衆は急ぎ鉄炮に弾薬を込めた。辺りにたちまち火縄の焦げる臭いが充満する。

 野牛曲輪の防御を指揮する奥平治左衛門勝吉は、後方に武田の兵卒を隠した竹束数個が足並みを崩す頃合を見計らっていた。横一列に川へと乗り入れた竹束隊であったが、川の深さや兵卒の足並みの具合で、横一列を保ち続けることは難しい。

 そのうち、最左翼に位置していた竹束が他の竹束と較べて遅れがちとなった。治左衛門勝吉はそれを看過しなかった。勝吉は大鉄炮を構える兵に対し

「あれだ。あの一番遅れている竹束を狙え」

 と指示した。

 大鉄炮を構える侍は一瞬耳を疑った。寄せ手を撃退するならば先頭をいく竹束から順に撃ち砕いていくことが常道と思われたからであった。しかしその逡巡は、勝吉の

「今だ、撃て!」

 という大喝に吹き飛ばされた。引き金を引くと同時に発射された七匁銃の弾丸は、寄せ手の竹束を容赦なく砕いた。宇連川の流れがたちまち赤く染まる。七匁弾は竹束のみならず、その後ろに隠れていた武田の兵卒の胴体に大穴を開けたのであった。その他傷者多数である。

 砕かれた竹束の前方にあって野牛曲輪に取り付こうとしていた他の竹束のうちの一隊は、大鉄炮の弾丸が自分たちの頭上を飛び越えて後方に位置していた味方に着弾したことに思わず驚愕した。こういった場合、先頭をいく竹束が狙われるのが常識であり、今回もそうなるだろうと考えていたからであった。遅れていた竹束が狙われたことで、次は誰が狙われるか知れないという恐怖心が、寄せ手に伝播した。

 寄せ手の竹束のうちの一隊が、傷を負った味方を収容しながら引き退きはじめた。負傷兵の収容は、場中ばなか(矢弾が飛び交う激戦地帯)から退却する恰好の口実であった。

 勝吉は、もう一挺備えている大鉄炮の射手に対し、今度こそ先頭をいく竹束を砲撃するよう命じ、その弾丸は竹束と、その後ろに隠れる兵卒を撃ち殺した。無傷の竹束隊は、やはり先頭の竹束隊の負傷者を担ぎながら退きはじめた。大鉄炮の弾丸二発で四隊の竹束を退けたことになる。弾薬を節約しながら最大の効果を得ようという勝吉の狙い通りであった。

 しかし甲軍は籠城衆の実に三十倍もの人数で攻め寄せており、また城攻めに際して先手の一隊が損害を蒙ることは日常茶飯事であったことから全く怯む様子もなく、新手を続々と繰り出してきた。このように数で押されては、数で対抗するより他なく、勝吉は矢弾を節約して曲輪を落とされるようなことになっては本末転倒だと考え、取り付く竹束に対して釣瓶打ちに鉄炮を連射した。野牛曲輪に取り付いくことに成功したいくつかの竹束の背後から、なんとか火縄を濡らさず対岸に到達出来た武田の鉄炮衆が、城に向けて応射する。両者の間で銃撃戦が繰り広げられている中、今回も甲軍に帯同していた金山衆が瓢曲輪の土手に回り込み、のみを入れはじめた。

 城方は、武田が金堀人夫を城攻めに使役することを知っており、またこれら金山衆に何度も煮え湯を飲まされていたことから殊更警戒し、金山衆目がけて激しく銃撃を加えた。しかし瓢曲輪の金山衆に気をとられているうちに、本丸西側に鑿が入ったことに城方は気付かなかった。城方にとって幸運だったことは、確かに本丸西側を崩されてしまえば城の保持は難しくなっただろうが、この土中には巨石が埋まっており、もとより鑿を入れられる場所ではなかったという点である。

 ともあれ甲軍は昼夜分かたずあらゆる場所に鑿を入れ、城を崩そうと必死になって攻め立てた。武田方の鉄炮は野牛曲輪を越えて本丸にまで引っ切りなしに撃ち込まれた。このために本丸を囲む板塀には無数の穴が空き、城主九八郎信昌の身辺にも着弾するほどであったという。本丸の籠城兵は破れた板塀を補修するためにあちこち走り回り、備蓄の板材を使い果たせば櫓の畳、床板まで引き剥がして補修材に充てた。

 攻城は順調であったが、信長が後詰を引き連れて押し寄せる恐れは日を追って増していくのであり、そのことを知る勝頼は

「牛久保に火を放て」

 と下知した。

 奥平父子が武田からの離叛を決意するほどこだわった牛久保に、その九八郎信昌の眼前で火を放つことを命じたのである。刈田狼藉は城方を城から誘きだす挑発行為の常套手段であったが、牛久保の領有を強く主張する奥平一党を目の前にこれほどの挑発行為もあるまい。

 事実、牛久保方面から上がる火の手を目にして長篠籠城衆からは

「何名かの決死隊を編成して、牛久保の甲軍に斬り込むべし」

 という声が上がったが、そのすきに城内へと付け入られることを恐れた信昌は、燃える牛久保を目の前に切歯扼腕しながらも

「軽挙は慎め。相手の思う壺だ」

 と、若年の将に似ず落ち着いて采配した。

 牛久保を焼き討ちした甲軍は、続いて吉田城下へと押し寄せた。これもまた同城に籠もる家康を城外に誘引するためであった。家康は信昌同様に城に籠もって甲軍の挑発に乗ることがなかった。甲軍は帰路、東三河一帯の灌漑用水を貯水している橋尾の堰を切った。梅雨時期を迎え、これから田植えをしようという時期に灌漑用水を失った百姓達は

「これから田植えだってのに、これじゃ夏には稲が全滅だ」

「刈田狼藉は聞いたことがあるが、堰を切るなんぞ耳にしたこともねえ」

 などと、口々に嘆いたという。

 再び長篠攻城戦に戻った勝頼は五月十一日から猛攻撃を開始した。宇連川と寒狭川の合流点である渡合どあいに竹束を以て押し寄せた。城方は野牛門から斬り出して反撃し、甲軍は城攻めの道具を捨てて下流に逃げ去った。城方は武田が捨て去った竹束などの道具を焼き払ったが、甲軍は再び攻撃隊を編成して野牛曲輪へと押し寄せてきた。野牛曲輪への攻撃は翌日にかけておこなわれた。

 同日深夜、子の正刻(午前零時ころ)のことである。具足姿で眠っていた信昌は、北東の瓢曲輪から喧騒を聞いた。飛び起きてその方角を眺めると、声に続き銃声が数発響いた。

「夜討ちか。見て参れ」

 信昌は本丸詰めの鳥居強右衛門尉すねえもんのじょう勝商かつあきに命じて瓢曲輪の戦況を検分させた。

 瓢曲輪は塀ばかりで、甲軍がこれを引き倒そうと夜討ちを仕掛け、夜討ちに気付いた城方が反撃を加えたことが強右衛門尉の復命により判明した。

「瓢曲輪は捨てて、兵を三の丸へと下げよ」

 信昌は苦渋の決断をした。城の弱点である北側の一角が遂に穿たれたのだ。

(武田はこの一角を押し広げようとするに違いない)

 信昌はそう考え、野牛曲輪から引き抜いた大鉄炮の衆を三の丸に派遣した。果たして甲軍は、夜も明け切らぬうちから井楼せいろうを押し立てて攻め寄せてきた。瓢曲輪を占拠し、井楼を三の丸に立てかけて兵を城内に送り込むためと考えられた。

 大鉄炮の衆は、打ち続く戦いによる疲労で最近とみに利かなくなった夜眼をなんとか働かせて、井楼を狙った。放たれた七匁弾は井楼を撃ち砕き、続いて城方の銃手は雲霞の如く群がる甲軍に向かって矢弾を浴びせ掛けた。城方の防戦によって甲軍に七八百もの死傷者が生じたという。

 三の丸方面から上がる鬨の声、喚声に耳を傾け、戦況に集中する貞昌の耳に、今度は西側から巨石の砕ける音が聞こえた。

「まさか! 本丸西側が遂に崩されたか!」

 信昌は本戦において初めて、うろたえたような叫び声を上げた。

 もとよりこの方面の土中に巨石が埋まっており、掘り崩すことが出来ないなどと知る由もない籠城衆である。本丸の土台が崩されたとなれば落城が間近いことは明白であったので、ここでも強右衛門尉が自ら名乗り出て

「様子を見て参ります」

 と飛び出した。

 しかし本丸西側は、本丸詰めの籠城衆が右往左往する姿こそ目にしたものの、敵方と思しき甲軍の姿を目にすることはなかった。強右衛門尉が塀から身を乗り出し城外を見ると、寒狭川を甲軍数名が舟に乗り、その右岸へと退いている様子が見えただけで、本丸西側の土台は健在であった。

「本丸西側に異常はございませなんだ。おそらくこの土中には巨石が埋まっており、打ち崩すことが容易ではなかったのでしょう。甲軍は我等を脅かすために大石を河中に投げ捨て大音を鳴らしただけと思われます。児戯に等しい脅しに過ぎません」

 強右衛門尉の復命にひとまず安心した信昌であったが、このまま甲軍の攻勢が続けば落城は時間の問題であった。

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