長篠城攻略戦(六)

「寸刻も待てませぬ」

 鋭い眼光を湛えながら、自らを睨むこの男。

 嫡男に家督を譲り、今は家康の許に近侍して、その相談相手に大人しく収まっているという話が、この男をまじまじと見るにつけ信長には信じることが出来なかった。

 菅沼定能が信長に向ける不躾な視線に、ともに岐阜へと派遣された石川数正は狼狽した。

「我が主家康は、殿様(信長)と清洲で交わした起請文に則り、近江箕作みつくり城攻めや若狭、姉川に転戦いたしました。当方は盟約を遵守したのに、殿様は遠州高天神に引き続いて、こたびも援軍下さらんというのなら致し方ございません。我等徳川は三河一国の安堵を条件に、遠州をまるまる勝頼に差し出して武田に降ろうと思います」

 定能が信長と面談するなり吐いた言葉は、真を衝いたものであった。信長は東方(武田家)への対処をほとんど家康に任せ、自らは天下静謐に邁進していた。軍事同盟が片務的なものと認識されれば、相手国から破棄を通達されても文句は言えなかった。

「徳川が滅びれば、我が織田家も危ういと常々考えておる」

 信長は噛みつかんばかりの定能に対し、視線を逸らすことなく返した。視線は逸らさなかったが、信長は後詰の派遣を明言しなかった。その準備が整っていなかったからである。

 後詰を明確に約束しようとしない定能はなおも続けた。

「武田に降った後は三河一国の兵を西に差し向けて、尾張を頂戴することとしよう」

 この定能のひと言には、さすがに傍輩の数正も慌てて

「信長公にも徳川のことを気にかけていただいておる。きっと後詰を下さるであろう。そのような無礼を申すでない!」

 と、これを制したものであるが、信長はこたえて

「よい。これも主君家康殿を思ってのご発言であろう。かかる忠臣を召し抱えられて家康殿が羨ましい限りだ。後詰の儀は承知した。しばし待たれるがよい」

 この信長の返事に対して放たれたのが、初頭の定能の発言であった。信長は矢の催促に閉口せざるを得なかった。

 

 先述したとおり、信長は二月から四月にかけて、摂津を転戦していた。信長に叛いた石山本願寺と、これに与して楯突いた三好康長を攻めるためであった。要害石山を目の前に、攻勢が遅滞する隙を、勝頼によって衝かれた信長が、それでもなんとか戦線を整理して岐阜に戻ったのが四月二十八日のことであった。先の戦役から十数日を経たばかりであった。兵は疲労していた。新たに陣布礼を下すというにはどう考えても日数が足りぬ。それに、分国に鉄炮と、陣城構築に用いる尺木の拠出を布礼廻っているが、必要な数がまとまるには今少し時間が必要であった。

 信長とてこのように準備していたのであって、決して後詰を渋っていたわけではない。渋っていたわけではないが、先の高天神陥落に際して後詰が間に合わなかったことで、徳川家中に信長への不信感が芽生えたであろうことは、定能の言を聞くまでもなく明らかであった。

 信長は佐久間信盛を召し出した。いうまでもなく、取り急ぎ長篠城後詰の先遣を命じるためであった。佐久間は累代愛知郡に本貫地を有し、三河とのつながりが強い家であった。織田家中において徳川との取次役とりつぎやくを任じられており、徳川との外交交渉の窓口になるのは佐久間信盛と定められていたために、先遣の任を特に佐久間信盛に命じたものであった。

 しかし召し出された佐久間は、旭日の如き勢いで北三河を席巻する武田に当たることを命じられて士気の阻喪甚だしいものがあった。これも無理からぬ話である。というのは信盛は、元亀三年(一五七二)十二月におこなわれた三方ヶ原の戦いで、間近に嫌というほど甲軍の威力を見せつけられていたからであった。

 このとき、二万七千という大軍を率いる信玄は、両軍合算して一万一千の織田徳川連合軍を、僅か一刻(約二時間)余りの合戦で粉微塵に撃砕している。織徳の連合軍にとっては、一千余の戦死者を出したと伝えられる大敗北であった。あの戦いから一年半が経過したばかりである。敗戦の記憶は新しい。

 さすがに信盛ほどの大身ともなると、信玄の死亡を確信できる程度の情報は入手できたことであろう。今回の相手は信玄ではなくその子勝頼であることを、信盛はこの期に及んで疑ってはいなかった。しかし信盛にとっては、今回の戦役で相手にしなければならないのが勝頼であるという点こそ、最もこの戦いを厭う所以であった。

 あのとき、三方ヶ原の合戦において、双方が真っ正面からぶつかり合って一進一退の攻防を繰り広げている中、その膠着状態を動かしたのが、「大」の小旗を掲げる勝頼の一隊だったからだ。

 勝頼率いる馬上衆は、畿内近国では先ず目にすることがない巧みな馬術によって馬を操り、文字どおりこれを食い止めようという鑓の衆や鉄炮衆を蹴散らしながら織徳連合軍に食い入ってきたのである。一塊になって突進してくる馬上衆に対し、鑓や鉄炮は無力であった。陣立てはあっという間に打ち崩され、平手汎秀は討死うちじに、佐久間信盛は這々の体で逃げ帰って信長に叱責されている。

 その勝頼を相手にしなければならないのだ。

 重圧が、三河へと向かう信盛の足を重いものにした。「甲陽軍鑑」によると、信盛は三河長沢まで進出したものの、そこで一端進軍を止めたとあるほどだ。

 ともあれ信長の近辺が後詰を嫌がるほど、今回の武田の戦果はめざましいものがあった。さすがに信長あたりは噂話に惑わされることはなかったが、大和国では

「武田勢は尾張熱田にまで到達しているらしい」

 という噂がまことしやかに囁かれるほどだったという(多門院日記)。

 かかる事態が信長にとって見過ごすことの出来ない事態であることも、またかわりはなかった。信長は定能や数正が岐阜を訪れてから旬日、三万の大軍を掻き集めて遂に岐阜を発した。その軍中には、これまで一箇所の戦場に集められたことがないほど大量の鉄炮が備えられていたし、兵は押し並べて尺木を担いでの行軍であった。荷駄にも大量の尺木と弾薬が準備されていた。この信長の大軍は五月十三日に岐阜を出立し、翌日には岡崎に達している。

 信長の後詰が岡崎に入城したことを、重囲下の長篠籠城衆はまだ知らなかった。

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