黄瀬川対陣(三)

「北条は戦意に乏しい」

 そう看破した勝頼は、この間に駿府へ乱入して放火した徳川家康を討ち取るべく軍を西へと返した。

 なお勝頼はこの際、再び氏政陣中に矢文を放ったという。この矢文には、


今から家康を討つために軍を返すが、追撃してくるならそうするがよい。存分に相手をしてやろう。

 

 などと記されていたと伝えられているが、自軍の動向を示唆する文書を、敵方の陣中に射込むとは俄に信じがたい。

 結局勝頼との決戦を回避した氏政であったが、勝頼が西へと転進するや機を得たりとばかりに黄瀬川を渡り、軍を沼津城へと差し向けてこれを攻め囲んでいる。勝頼は事前にこのことやあらんと予測しており、沼津城に典厩信豊、春日信達等を籠めていた。これら沼津籠城兵は果敢に戦って北条勢の攻勢を凌ぎきっている。勝頼本隊が去り、敵勢と比較して更に劣勢の籠城方が終始優勢であった事実から、狩野川の河岸段丘を利用して築かれた沼津城が堅固を誇ったであろうことが知られる。

 一方の家康。

 勝頼が黄瀬川を挟んで氏政と睨み合っている状況下、家康は勝頼に危急を報せた持船城攻略に掛かり、城方の駿河先方衆三浦兵部、向井伊賀守を討ち取る戦果を挙げた。このため城方は駿府に向かって東進する家康を追撃する余力を失い、家康はやすやす駿府に乱入したのである。

 このころ家康は、氏政が黄瀬川を境にして自陣に引き籠もり、勝頼本隊の反転を追撃していないことを知らなかった。勝頼は北条方に釘付けにされていると思い込んでいたのである。

 なので散々駿府を荒らし回って好き放題に暴れ回っていた。家康は勝頼が当分この方面に現れることはないと高をくくったうえで略奪狼藉にかまけていたのであり、勝頼にとってこの家康の油断は、信長の後詰がない彼を討ち取ってしまう千載一遇の好機であった。

 そのことを知る勝頼は夜を日に継いで沼津方面から駿府へと急いだが、九月二十一日酉の刻(午後六時前後)より降り出した雨は翌日になっても止まず、富士川が増水して渡河思うに任せない有様である。

 具足や陣羽織、旗指物を叩く雨足は強く、目の前の濁流に人馬とも尻込みする中、勝頼は

「この機を逃してしまっては家康撃滅の好機は二度と訪れることはないであろう。各人余に続け」

 と下知して、自ら率先して増水した富士川に乗りいれたという。

 無論国主が率先して濁流に身を投じたものであるから、勝頼旗本とてこれに続かないというわけにはいかない。旗本衆は濁流の圧力を少しでも弱めようとあるじの周囲を取り囲むように塊になって川を渡りきった。周囲に人を配しながらの渡河であって少しは川の流れを弱めることが出来たであろうが、それにしても自ら率先して泥流に乗り入れて川を渡りきってしまうあたり、さすが武勇諸国に知られた勝頼である。馬術巧みでもあったのだろう。越軍襲来を報せる軍役衆の馬術に圧倒された若かりし頃の勝頼と、同日に語ることはもはや出来なかった。

 後に続く軍役諸衆は、国主自らいの一番に乗り入れた様を見て尻込みするわけにもいかず、次々と川に乗り入れたが、濁流に身を流す者数多に及んだ。全身ずぶ濡れの甲軍が駿府に入ったとき、そこは街区一面焼け野原、目当ての家康は既に色尾に撤退した後であり、勝頼は文字どおり地団駄を踏んで悔しがった。

 勝頼は

「戦わずとも良い長篠で戦い、戦わなければならない駿府で長蛇を逸した」

 と嘆じること一再ではなかった。

 家康はこの後、牧野原城を経由して浜松に帰還している。

 勝頼は駿河に出張ってきたついででもなかろうが、駿河支配の最重要基地である江尻城普請の進捗状況を検分するためにそれへと入った。先ず目を引いたのは本丸に建てられた楼閣であった。瓦葺き、五層の高楼である。勝頼はこの楼閣の噂は知っていた。おおかた城代穴山信君の趣味による普請だろうと思われて内心不愉快であったが、信君肝煎りの普請にけちを付けて不機嫌にさせたくはないと考え、このように見てくれだけ豪奢な代物が城郭の防御に役立つものかと唾棄する気持ちを隠しながら

「これは、随分と立派な楼閣であるな。上階の縁廻に立てば、駿河の国中を見渡せそうだ」

 と言うと、信君は満更でもない表情を示しながら

「左様、国中を見渡すことが出来ます。したがってこれを、観国楼と名付けました。廻船の漕ぎ手の目印にもなりましょう」

 と自慢げであった。折しも信長が入った安土城の噂が諸国に響き渡っていたころのことである。信君の耳にもその噂が入っていたに違いなかった。そのことを思うと勝頼は

(世上の雀は甲斐の武田も信長に倣って高楼を築いたなどと陰口を叩くに違いない。観国楼とか言ったな。透破より聞いた安土城天主と比較してもみすぼらしさは否めない。恥ずかしいことをする奴め)

 と心の内で穴山信君を罵り倒したのであった。

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