黄瀬川対陣(二)

「矢文によって氏政陣中に決戦を申し入れる」

 勝頼がこのように言うと、穴山信君が

「児戯に等しい。乗ってくるとは思われぬ」

 と国主に対しあるまじき意見を口にした。それに反駁を加えたのは長坂釣閑斎であった。

「御屋形様の仰せを児戯に等しいなどと。聞き捨てならん暴言である」

 すると信君は

「我等は家運を賭したいくさに先立ち軍議をおこなっているのだ。その軍議に窮した挙げ句、決戦を申し入れるなど児戯といわずしてなんというか」

 と、なおも放言して憚らない。勝頼は

「聞け、玄蕃」

 と制した。長坂釣閑斎に対しては当てつけの如く放言する信君であっても、さすがに勝頼本人にそのようなことを言うものではない。信君は不満げながらも黙り、勝頼に顔を向けた。勝頼は言った。

「もとより矢文などに反応して黄瀬川を渡る氏政とも思えん。彼は矢文に目を通して、武田が本戦に賭ける決意の程を知るであろう。狡知には長けるが武勇心許ない氏政のことである。武田の死兵といくさするを恐れて、川を渡ってくることは万に一つもあるまい。このように北条の戦意を見極めて、氏政が応じなければ沼津城の手当をおこない西に取って返し、家康と一戦交えることとする。万が一氏政が決戦に応じるというならば、彼の軍兵が黄瀬川を渡った頃合を見計らってそれこそ痛撃を加えればよいのだ」 

 と言った後、

「もし敵が矢文に応じて黄瀬川を渡れば、陣立ては以下のようにする。敵の先陣松田憲秀に対しては小山田左兵衛尉信茂、郡内衆を率いてこれに当たれ。山県三郎兵衛尉昌満は大道寺政繁、春日信達は遠山政景、土屋右衛門尉昌恒は笠原政晴にそれぞれ打ち掛かること。我が武田の死命を決する大いくさである。敵の一門には我が一門を当てることとする。まず典厩信豊は北条氏光、次、穴山玄蕃頭は北条氏照。一条右衛門大夫信龍は北条氏邦、我等は氏政本隊及びその旗本衆へと斬りかかる。各人その肚づもりを」

 と、諸将に決意を促すと、穴山信君はただでさえ不満げだった表情を更に不快に歪ませて

「それがしが当たる氏照率いる滝山衆と申せば北条方でも一二を争う多勢ではないか。我等河内衆には如何にも荷が重い」

 と難色を示した。

 勝頼はその言葉を聞いて

(このいくさは、もとより駿河を防衛するためのものだ。江尻を領する信君がより強力な敵部隊と交戦するのは当然ではないか)

 と思い、そのことを口に出そうとしたとき、長坂釣閑斎が広間に集う諸将に言った。

「今、陣立てを聞いて、交戦する敵部隊に人数で優る将はありますか」

 このように問われて誰ひとりこたえる者がない。

「ご覧じろ、穴山殿。皆々様、誰一人として敵の数に優る兵を率いてはござらん。ご自分の手勢を労るのは当然のことでござろうが、数に優る敵に一丸となって当たろうというときにそのようなことを口にするものではありませんぞ」

 と言うと、小山田左兵衛尉信茂は

「全くそのとおりだ。屋形様に言わせれば敵が決戦を受け入れることは万に一つもないということであるが、氏政の意向が那辺にあるかを知る我等ではない。我等はこれから、自らに二倍三倍する敵に当たろうとしているのだ。その覚悟をしなければなるまい。もし穴山殿が左様に尻込みなさるのなら、それがしが代わって滝山の衆に当たろうではないか」

 と並々ならぬ決意を示した。

 一廉ひとかどの侍であればこのように言われて自らの前言を恥じ

「冗談である。任せられよ」

 と撤回するところであろうが、このころ既に穴山玄蕃頭信君は思うところあったものか、殊更自らの軍役衆の保護に奔り、小山田左兵衛尉信茂の申出こそ幸いとばかりに

「左様か。では宜しく頼む」

 と言ってのけ、これを了解してしまったのであった。

 この一連の遣り取りには満座が白けたし勝頼をして大いに失望させた。

 ともあれ翌日、勝頼は早速氏政陣中に決戦を申し入れる矢文を射込んだ。矢文は速やかに本営の氏政に回送された。矢文には、甲相手切に及び、斯くの如く境目さかいめ惑乱わくらんして諸人が苦しんでいること、この苦しみを早急に終わらせるために、長陣することなく速やかに決戦して一挙に片を付けたいと考えるがどうか、応じる気があるならば黄瀬川を渡って来られよと書かれていた。

 もとよりそのような矢文を一顧だにする氏政ではない。甲軍に優る三万五、六千の兵を率いる氏政であったが、武田が武勇人、有徳人を選抜して軍を構成していたのと比較すれば、北条方はこれに加えて農民を徴集することがあった。今回もその割合が多い。北条家の場合、このような動員は他国への侵攻作戦ではなく領土防衛戦の際におこなっていたようである。事実氏政は本戦を駿河切り取りのためではなく、沼津城撤去のためと位置づけていた。

 したがって勝頼から闘志満々たる矢文を受け取りはしたが、士気に劣る士農混成部隊が武田に蹂躙されることを恐れて

「我等は他国を切り取ろうと企てて出張ってきたものではない。自分達の国を守るために出張ってきたものだ。もし勝頼がいくさをしたいというのなら、我等ではなく徳川とすればよかろう」

 と返書したという。

 無二の一戦と意気込んで矢文した勝頼であったが、この返書を目にして脱力するやら呆れるやらであった。

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